膺懲の檄文はいよ/\事前に配布された。それは二月十七日の夜から
十九日の暁天までを期し、摂津、河内、和泉、播磨の四ケ国方数十里の
間に頒布したのである。其体裁は西ノ内紙五枚に摺り、其を継合せ、薄
き黄絹の袋に封じ、袋上に「天より被下候。 村々小前のものに至迄へ」
と書し、裏に伊勢神宮の大祓が貼付してあつた。頒布の事は結盟の門人
上田孝太郎、額田善右衛門等数人が其任に当つて、多く神社仏閣の柱に
貼つたと請はる。其文左に、
四海困窮いたし候はゞ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめしめば
災害并至と、昔の聖人深く天下後世、人の君人の臣たる者を御誡被置
候故、東照神君にも、鰥寡孤独に於て尤憫みを加ふべくは是仁政の基
と被仰置候、然るに茲二百四五十年、太平の間に、追々上たる人驕
奢とておごりを極め、大切之政事に携候諸役人ども、賄賂を公に授受
とて贈貰致し、奥向女中之因縁を以て、道徳仁義をも無き拙き身分に
て、立身重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫のみに智術を運し、
其領分知行所の民百姓共へ過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦
む上へ、右之通無体の儀を申渡、追々入用かさみ候故、四海の困窮と
相成候付、人々上を怨ざる者なき様に成行候得共、江戸表より諸国一
同右の風儀に落入り、天子は足利家以来別而御隠居御同様、賞罰の柄
を御失ひに付、下民の怨何方へ告愬とて告げ訴ふる方なきやうに乱候
付、人々之怨気天に通じ、年々地震火災、山も崩れ、水も溢るゝより
外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候。是皆天より深く御
誡の有難き御告に候へ共、一向上たる人々心もつかず、猶小人奸者の
輩、大切の政を執行、只下を悩し金米を取立る手段計りに打懸り、実
以小前百姓共の難儀を、吾等如きもの、草の蔭より常に察し悲候へ共、
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湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳も無ければ、徒に蟄居致候処、
此節米価弥高直に相成、大阪の奉行竝に諸役人共、万物一体の仁を忘
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れ、得手勝手の政道を致し、江戸へ廻米をいたし、天子御座所の京都
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へは廻米の世話も不致のみならず、五升一斗位の米を買に下り候者
共を召捕など致し、実に、昔葛伯といふ大名、其農人の弁当を持運候
小児を殺候も同様、言語道断、何れの土地にても、人民は徳川家御支
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配のものに相違なき処、如此隔をつけ候は、全く奉行等の不仁にて、
其上勝手我儘の触書等を度々差出し、大阪市中游民計りを大切に心得
候は、前にも申通、道徳仁義を不存拙き身故にて、甚以厚ケ間敷不
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届の至り、且三都の内大阪の金持共、年来諸大名へ貸付候利徳の金銀
竝に扶持米等を莫大に掠取、未曾有の有福に暮し、町人の身を以て、
大名の家老用人格等に被取用、又は自己の田畑新田等を夥しく所持、
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何不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら畏も不致、餓死の貧人
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乞食をも敢て不救、其身は膏梁の味とて結構の物を食ひ、妾宅等へ
入込、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も
同様に致し、此難渋の時節に絹服をまとひ候河原者を妓女と共に迎ひ、
平生同様に游楽に耽候は、何等の事哉、紂王長夜の酒盛も同じ事、其
所の奉行諸役人、手に握居候政を以て、右の者共を取締め、下民を救
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候儀も難出来、日々堂島相場計をいじり事致し、実に禄盗にて、決
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して天道聖人の御心に難叶御赦しなき事に候、蟄居の我等、最早堪忍
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難成、湯武の勢、孔孟の徳は、無けれ共、無拠天下のためと存じ、
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血族の禍を冒し、此度有志のものと申合せ、下民を悩し苦め候諸役人
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を先づ誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持の町人共を誅戮
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に及び可申候間、右之者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に隠
置候俵米、夫々分散配当致し遣し候間、摂河泉播の内、田畑所持不
致もの、仮令所持致候とも、父母妻子家内の養方難出来程の難渋の
者へは、右金米等取らせ遣候間、いつにても大阪市中に騒動起り候と
聞伝へ候はゞ、里数を不厭一刻も早く大阪へ向け、駈可参候、面々
へ右米金を分け遣し可申候。鉅橋鹿台の金粟を下民へ被与候遺意に
て、当時の飢饉難儀を相救遣し、若又其内器量才力等有之者には夫々
取立、無道の者共を征伐いたし候。軍役にも遣ひ可申候。必一揆蜂
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起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至迄軽く致し、却て中興 神武御政
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道の通、寛仁大度の取扱に致し遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改め、
質素に立戻り、四海万民いつ迄も 天恩を難有存、父母妻子を被養、
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生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遣し、堯舜、天照皇
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大神の時代に復しがたく共、中興の気運に恢復とて立戻り可申候。
此書付村々ヘ一々しらせ度候へ共、数多の事に付、最寄の人家多候大
村の神殿へ張付置候間、大阪より廻し有之番人共に知られざるやう
に心掛、早々村々へ相触可申候。万一番人共眼付、大阪四ケ所の奸人
共へ注進いたし候様子に候はゞ、遠慮なく面々申合せ、番人を不残
打殺可申候。若右騒動起候を承ながら、疑惑いたし、駈参不申、
又は遅参候はば、金持の米金は、皆火中の灰に相成、天下の宝を取失
ひ可申候間、跡にて必我等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を不致様
可致候、其為一同へ触しらせ候。尤是迄地頭村方にある年貢等にかゝ
わり候諸記録帳面類は、都て引破焼捨可申候。是往々深き慮ある事に
て、人民を困窮為致不申積に候。乍去此度の一挙、当朝平将門、
明智光秀、漢土の劉裕、朱全忠の謀反に類し候と申者は、是非有之
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道理に候へ共、我等一同心中に天下国家を簒盗いたし候慾念より起し
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候事には更に無之、日月星辰の神鑑にある事にて、詰る処は、湯・
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武・漢高祖・明太祖、民を吊、君を誅し、天討を執行候誠心のみにて。
若疑しく覚候はば、我等の所業、終候処を、爾等眼を開て看。
但し此書付、小前の者へは、道場坊主、或医者等 より篤と読聞せ
可申。若庄屋年寄、眼前の禍を畏、一己に隠し候はゞ、追て急度
其罪可行候。
奉天命致天討候
天保八丁酉年 月 日
某
摂河泉播村々
庄屋年寄百姓并小前百姓共へ
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