Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.8.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その64

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第二十一章 盟軍出動(1)
管理人註
   

 予定の出動期は此日の午後であつた。故に同志はまだ悉くは聚まらな い、而も事は已むべきでない。いよ/\出動命令は発せられた。先づ二 奉行を屠る計画は齟齬したが、宇津木の血を見た一同は奮躍した。各着 込、野袴、後鉢巻の武装に、長槍、太刀、或は鉄砲の武器を帯し、雑兵 は多く竹槍を立て、洗心洞新塾前の泉水埋立地に勢揃ひをなし、辰時 午前八時 を過ぐる頃、新塾の墻塀を突破して進出した。中斎は命じて 洗心洞背後の建国寺に向つて一発の砲声を送らせた、此処は東照宮を祀 る処なれば、大阪奉行に取つて守護の任、尤も重い。中斎の意は、斯く せば、奉行必出馬して之を救ふであらう、そこを掩撃せんとの誘動策で あつた。而かも奉行は狼狽するのみで、出て来ない。時に同志の後れた ものは固より、平生恩に感ずる者、又は近郷の百姓ども、スハ事始まり たれと先を争うて聚り、忽ちにして三百余人に上つた。そこで一旦建国 寺より引返し、隊伍を立て直して押出す。発するに臨み、火矢を以て自 邸を焼き、又余勢を以て浅岡邸 二奉行休息予定の屋敷 を砲撃した。時 に南風極て強く、火勢相合して烟焔天に冲する有様であつた。                     ナガラ  それより盟軍の進路は、天満橋筋を北に、長柄方面に向ひ、中途西し て与力同心町に出で、時々威嚇砲撃を試みて天神橋筋に出た。此は寧ろ 一種の示威運動で、唯だ奉行軍の来るを待つたが、奉行軍は来ない。天 神橋に至る頃には、百姓町人の来り加はるもの愈多く、六七百人にも達 した。時に天神橋の南端切断されたるを聞き、直に西して難波橋に向ふ、 時に天満市中処々に火災を起して、烟焔天を焦した。正午頃、盟軍は遂 に難波橋を南に渡つて北船場に入つた。


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その114


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