Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.8.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その63

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第二十章 愛弟宇津木矩之丞の壮死
管理人註
   

 十九日の前夜は、同志洗心洞に会し、最後の謀議既に定まり、大に宴 を張つて士気を鼓舞した。天漸く明く、此日釈菜の当日にて、他の門人 も前後集らんとす、時に瀬田済之助、危を脱し、馳せ還つて急を報じた、 中斎曰く、事此に至る、直に発せんのみと、乃ち発するに臨み、先づ愛 弟宇津木矩之丞を殺さしめた。  矩之丞は彦根藩家老宇津木下総の弟にして、名は靖、字は共甫、静区 と号す。幼にして越前某寺の僧となる。後ち儒に志して京都に寓し、既 にして中斎に従学す、中斎之を重んじ、持つに朋友を以てしたと謂はる。 矩之丞、感ずる所ありて西国に遊び、帷を長崎に下した、既にして門下 岡田良之進(穆と云ひ、友蔵と云ふ、皆同人ならん)を従へて帰東し、 洗心洞に投じた。時恰も挙兵の期が迫つて居た。中斎は、其の前日、告 ぐるに膺懲の挙の已む可らざるを以てした。矩之丞は之を肯んぜず、諌 止して曰ふ「災を救ひ、民を恤むは官に自ら其人あり、況や豪商を屠つ て之を済ふ、是れ民を救ふ所以は、民を災する所以となる、乱民に終ら ん」と。中斎、其志を諒して退かしめた、而かも矩之丞は己の免る可ら ざるを察し、其夜一書を作つて良之進に託し、密に之を家兄に致さしめ、 己れは一死を期した。翌暁、事起る。中斎は涙を揮つて、矩之丞を斬る べく、門下の壮士大井正一郎に嘱した。正一郎、槍を取て矩之丞を熱中 に索め、其の厠より出づるを見て之に迫る、矩之丞、首を伸ばして曰く、 余、固より此事あるを知ると、逐に命を殞した、時に年二十九。天満水 滸伝に、其の国元へ送つた書翰が掲げられて居る。左の如し(矩之丞遺 著浪遊小草に門人岡田穆の撰せる宇津木静区先生伝を載す、此書翰の事 を言はず、其他異同あり、後考に譲る)  一筆申残候、追日和緩相成候処、御両親様始、益御機嫌克可  御座恐悦候。然者私儀、先達而小倉表より申上候通り、雨天勝  に候得共、日積大体十七日の夕刻、大阪阿治川へ着阪仕候。四ケ年以  前出立之砌、師弟之契約仕候平八郎天魔身に入候哉、存外之企有之、  大阪町奉行を討取、其外市中放火致し、御城をも乗取可申抔と企候  謀叛にて、私荷担可致被申、強而申聞候に付、種々諌言致し候得共、  申出候事返さぬ気性ゆゑ、容易には承知も仕間敷奉存候。乍併此儘  見棄罷帰り候ては、武士道不相立、其上斯の如く大望打明し候事故、  生ては返し申間敷、乍去荷担仕候はゞ、第一御家の名を穢し、忠孝  の道に背き、師を見捨候ては義相立不申、無拠一命を差出し、今夜  平八郎始め徒党之者共へ篤と利害を申聞、忠孝仁義相立候様可仕奉  存候、何共重々御前様万端宜敷御機嫌奉願候。是迄厚御慈悲を蒙り、  私帰国も無程と御待も被下候儀と奉存候へば、猶更帰国難忘事、  未練之者と思召も耻入候仕合に御座候。斯る時節に参合せ候は、私武  運に尽候儀と奉存候、様子具に申上度候得共、何れ即日様子は御地  へ相知れ可申候間不申上候。大阪騒動と御承知被下候はゞ、敬治  儀は相果候と被思召下候、最早時刻に可相成、心急ぎ荒増  申上候、余は御察し奉願上候、以上。    二月十八日           宇津木敬治   尚々友蔵儀、永々旅中世話致呉候、未一礼をも不致相別れ申候間、   宜敷御伝へ可下候、以上。


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その113
























恤(めぐ)む

















殞(おと)した



「浪遊小草」は
岡本黄石の
『浪迹小藁』か



『天満水滸伝』
その18
 


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