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奉行は盟軍の発動を事前に防止処置すべき肝要な十八日を因循に過し
去つた、其は荒ら立てゝ却て事件を激発せしめぬか、又た中斎の事であ
るから、其の一味徒党は我手元其他意外の処まで及んで居らぬかと、危
疑惶惧の中に一日を過したのだ。処で十九日の暁、第二の密訴も受け、
又た壮士瀬田も取り逃がした、最早矢は絃を離れた。而かも跡部奉行は
中斎の叔父にて、病気の為め義盟にも加らずに居る大西与五郎を呼出し、
之に中斎取鎮めの任務を帯ばして中斎の許に赴かしめた、迂の極であ
る、大西は果して途中より逃げ去つた。盟軍既に出動し、建国寺焼け失
せたと、注進櫛の歯を引く如く来た。奉行は是に於て始て城代土井大炊
頭に対面して事変を訴へ、且つ玉造口の定番遠藤但馬守の援兵を乞うた。
元来大阪城の鎮撫としては城代がある、之は当時下総古河の城主土井大
炊頭が之に当り、其下に京橋口定番、玉造口定番といふのがあつて、城
内の警衛に当つて居る。当時前者は米倉丹後守が務め、後者は遠藤但馬
守が務めて居た。其外に大番頭が二人、東小屋、西小屋と分れ、城代の
下に守備に当つて居る。此時城代は跡部奉行の訴を聞いて大に驚き、玉
造組の援兵を許した。そこで玉造組よりは砲術指南坂本鉉之助が、一隊
の部下を率ゐて馳せ参じた。形勢は刻々重大となつたので、土井城代は
城内巡視の命を触れ、本丸を巡視した。城代巡視となれば、諸番諸部そ
れ/゛\守備に就かねばならぬ、是に於て大阪城の防備は略ぼ整うたが、
跡部奉行は鎮撫の全責任を負ひながら、逡巡して発せず、纔に卒を発し
て天神橋の橋板を撤せしめた。これは敵の来る路を絶つと云ふには、策
の拙なきものであるが、寧ろ坂本等の敵に応ずるのを防いだといふに至
つては、其の狼狽知る可しである。坂本等は頻に奉行の出馬を迫つた、
土井城代は事の機を失はんことを慮かり、西町奉行堀伊賀守を召し、跡
部奉行と共に出馬すべく命じた。是に於て、堀奉行は先づ京橋組の兵を
率ゐて発し、茲に両軍の会戦が始まつた。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その117
因循
思い切りが悪く、
ぐずぐずしてい
ること
惶惧
(こうく)
おそれかしこま
ること
纔
(わずか)
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