「大塩の乱関係論文集」目次
大鐙閣 1920
◇禁転載◇
天保八年丁酉先生四十五歳 (24) | |
城州援兵ヲ 請フ |
是ヨリ先跡部山城堀伊賀等各其ノ部下ニ命ジテ手配セシムル所アリ、準備未ダ成ラズ、 先生ノ軍疾風迅雷事意外ニ出テ勢甚ダ猛烈、建国寺焼失ス、軍既ニ出動ス等注進櫛ノ歯ヲ引クガ如ク事甚ダ急ナリ、而シテ狐疑逡巡未ダ自ラ発スルコト能ハズ、 是ニ於テ初テ城ニ登テ城代土井大炊頭ニ事由ヲ訴ヒ、又定番遠藤但馬守ニ依テ援兵ヲ請フニ至ル。
天満水滸伝云 偖城州には我手の与力同心共にも、皆々大塩が党類にもや其志斗り知れ難く、爰に聊か狐疑を起して少しも心を免されず、然れど其侭に居らん事も臆したるに似て快からず、如何はせんと思案の内、屹度心に点頭かれて、御城内なる城代土井大炊頭に至られ、対面の上述べられけるは偖此度の一儀容易ならざる次第にて、早天天満より事起り其騒動大方ならず、早速出馬いたし制方の手配り差図に及ぶべき処、組の者共大塩へ荷担の程も斗り難く、迂濶に召連出張いたし、万一途中にて違変あらば不束にも相当り、夫のみ当惑に思ひ候、依て何卒玉造組の与力へ尊君より仰渡され、是を拝借仕り出馬いたし度候也。 |
本多為助談 |
城代土井大炊頭是ニ於テ始テ事ノ顛末ヲ聞キ大ニ驚キ、跡部山城ノ請ヲ容レ遠藤但馬守ヲシテ援兵ラ出サシム、但馬守即チ用人畑佐秋之助ヲシテ玉造組与力坂本鉉之助本多為助ニ城州応援出動ノ命ヲ伝フ。
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出兵問題ト 両組ノ衝突 |
按スルニ山州援兵加勢ノ出願ハ組下手不足ヲ理由トセルハ事実ナルモ、山州ノ此ノ一挙ニ対シテ卑怯狼狽ノ結果ニ出デタルヲ掩フベカラズ、 既ニ三日前ノ内訴ヲ聴テ手ヲ措ク所ヲ知ラズ、今日ノ大事ヲ醸シテ手不足ヲ訴フル此ノ理アルベカラズ、而シテ城代ノ直ニ之ヲ聴セルハ事ノ急ナルヲ以テ止ムベカラズトスルモ事理軽率ヲ免カレズ、 故ニ遠藤但馬ノ用人畑佐秋之助ヲシテ玉造京橋両組ノ加勢出動ヲ命ズルヤ、玉造組ハ直ニ畏リタルモ京橋組ハ之ヲ以テ甚ダ迷惑トシテ一致セズ、 盖シ坂本鉉之助本多為助(玉造組与力)ハ不筋ナレドモ平生帰服セル但州ノ命令トシテ之ヲ諒解シタルモノニシテ、広瀬治左衛門、馬場左十郎(京橋組与力)ハ定番米倉丹後守未ダ着任セズ、遠藤但州預リ中ニ在リ情誼自ラ同ジカラズ、 即チ固ク加勢不筋ノ理ヲ唱ヘ因テ玉造組ト計テ相共ニ加勢ヲ辞セントス、而シテ両組遂ニ衝突ス、両組ノ衝突ハ又上司ノ軽率ヲ見又 城兵ノ情偽ヲ窺フニ足ル。 |
浪華騒擾記 本多為助談 参照 先例モ亦不 可 |
町奉行所へ貸候儀は組柄にも拘はり、難儀なりとの仰にて沙汰止となりし由承及候、其上仮令頭の申渡にても、承引仕り難き事は再応申上御沙汰替に相成候例も有れば、仰渡なればとて一概にお断り成り難きにもあるまじく其為御相談に参りしとの事なれど、貞は今日の儀は何分御手前と拙者とは所存違につき、御手前にて御勝手次第に為さるべく、別に当方には御相談に及び不申といへば、如何様にも御勝手にと彼一句此一句、語勢も次第に荒くなりし所へ、畑佐秋之助参られ、味方同志の口論もやみ、治左衛門は引返して同心三十人を連れ、東町奉行所へ参られたり云々。
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