Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.8.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その68

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第二十三章 両軍の衝突及盟軍敗退
管理人註
   

 時に已に正午を過ぎた。盟軍は三段の陣備を立て、救民の旗を先頭と して、蜿蜒六七百人、遂に北船場に入つた。此地は富豪の巣窟にて、大 廈高楼甍を並べて全盛を極む。盟軍は之を打毀して金穀を窮民に施与す るのが一つの目的であつた。乃ち先づ鴻池三郎兵衛、同善右衛門等を爆 破す。それより盟軍は二手に分れ、本隊は中斎自ら之を引率して高麗橋 通りへ出で、一隊は大塩格之助之を引率し、大井正一郎之に従ひ、今橋                          通りに出た。中斎の本隊は三井、其他の巨商に砲火を浴びせ、金穀を路 上に散布して貧民の取るに任せ、堺筋に出て、淡路町に入つて姑く休憩 した。  格之助の一隊は、今橋を渡つて上町に出で、順次豪戸を撃破し、大手 筋より思案橋を指して西に下つた。時に未だ一人の城兵を見なかつたが、 孤軍深入の危険を感じ、帰つて本隊に合せんと、平野橋より高麗橋方面 に出でんとして、忽ち堀奉行の一隊島町方面より来るに遇ふた。格之助 は衆を励まして応戦し、砲撃最も猛烈を極めた。偶々堀奉行の馬驚き、 奉行は倒まに馬より落つ。一隊の兵は主将丸に倒ると思ひ、算を乱して 敗退した。格之助は初陣の功名を贏ち得、退て本隊に合した。  堀奉行の退て奉行所に入るや、跡部奉行始て出馬した。中斎は敵を迎 え撃つべく軍を進めて平野橋の東に至り、跡部奉行の馬標を望んで、奸 賊来れりと叱咤して砲撃を命じた。敵忽ち潰走し、跡部奉行亦た馬より 落つ。既にして敵の勇士畑佐秋之助、坂本鉉之助等一隊、猛然引返して 来た。盟軍中の民兵先づ崩る、混戦稍久しく、盟軍終に支へず、平野橋 を西に渡つて退く。之が平野町衝突戦と称せられた。  此時堀奉行も亦兵を率ゐて来り会した。是に於て両奉行路を分て進み、 跡部奉行先手堺筋に現はる、盟軍、之を望んで砲火を開く、其距離凡そ 一町余、盟軍の士庄司義左衛門、梅田源右衛門、大砲を放て善く戦ひ、 敵兵漸く乱る。既にして梅田は坂本鉉之助の弾に斃れ、庄司又傷を負ひ、 盟軍の士気、大に沮喪した。次で堀奉行の隊も来り会し、盟軍益々支へ ず、中斎は残兵をまとめて淡路町に退く、顧みれば、左右僅に八十人を 余すのみ。中斎曰ふ、吾の跡部奉行を獲ざるは天なり、吾、事終る、強 いて死戦を要せずと、其衆を解散し、腹心の士十数人と夜に乗じて潜行 し、八軒屋に至り、小艇に乗つて踪跡を晦ました。時に戌刻 午後八時 であつた。


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その119

蜿蜒
(えんえん)
うねうねと
どこまでも
続くさま

大廈
(たいか)
大きな建物



姑(しばら)く



















贏(か)ち





















石崎東国
『大塩平八郎伝』
その120
 


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