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時に已に正午を過ぎた。盟軍は三段の陣備を立て、救民の旗を先頭と
して、蜿蜒六七百人、遂に北船場に入つた。此地は富豪の巣窟にて、大
廈高楼甍を並べて全盛を極む。盟軍は之を打毀して金穀を窮民に施与す
るのが一つの目的であつた。乃ち先づ鴻池三郎兵衛、同善右衛門等を爆
破す。それより盟軍は二手に分れ、本隊は中斎自ら之を引率して高麗橋
通りへ出で、一隊は大塩格之助之を引率し、大井正一郎之に従ひ、今橋
あ
通りに出た。中斎の本隊は三井、其他の巨商に砲火を浴びせ、金穀を路
上に散布して貧民の取るに任せ、堺筋に出て、淡路町に入つて姑く休憩
した。
格之助の一隊は、今橋を渡つて上町に出で、順次豪戸を撃破し、大手
筋より思案橋を指して西に下つた。時に未だ一人の城兵を見なかつたが、
孤軍深入の危険を感じ、帰つて本隊に合せんと、平野橋より高麗橋方面
に出でんとして、忽ち堀奉行の一隊島町方面より来るに遇ふた。格之助
は衆を励まして応戦し、砲撃最も猛烈を極めた。偶々堀奉行の馬驚き、
奉行は倒まに馬より落つ。一隊の兵は主将丸に倒ると思ひ、算を乱して
敗退した。格之助は初陣の功名を贏ち得、退て本隊に合した。
堀奉行の退て奉行所に入るや、跡部奉行始て出馬した。中斎は敵を迎
え撃つべく軍を進めて平野橋の東に至り、跡部奉行の馬標を望んで、奸
賊来れりと叱咤して砲撃を命じた。敵忽ち潰走し、跡部奉行亦た馬より
落つ。既にして敵の勇士畑佐秋之助、坂本鉉之助等一隊、猛然引返して
来た。盟軍中の民兵先づ崩る、混戦稍久しく、盟軍終に支へず、平野橋
を西に渡つて退く。之が平野町衝突戦と称せられた。
此時堀奉行も亦兵を率ゐて来り会した。是に於て両奉行路を分て進み、
跡部奉行先手堺筋に現はる、盟軍、之を望んで砲火を開く、其距離凡そ
一町余、盟軍の士庄司義左衛門、梅田源右衛門、大砲を放て善く戦ひ、
敵兵漸く乱る。既にして梅田は坂本鉉之助の弾に斃れ、庄司又傷を負ひ、
盟軍の士気、大に沮喪した。次で堀奉行の隊も来り会し、盟軍益々支へ
ず、中斎は残兵をまとめて淡路町に退く、顧みれば、左右僅に八十人を
余すのみ。中斎曰ふ、吾の跡部奉行を獲ざるは天なり、吾、事終る、強
いて死戦を要せずと、其衆を解散し、腹心の士十数人と夜に乗じて潜行
し、八軒屋に至り、小艇に乗つて踪跡を晦ました。時に戌刻 午後八時
であつた。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その119
蜿蜒
(えんえん)
うねうねと
どこまでも
続くさま
大廈
(たいか)
大きな建物
姑(しばら)く
贏(か)ち
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その120
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