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十九日夜、中斎父子其跡を晦ますや、一旦大和路に入り、又た河州路
に立戻り、廿四日夜、再び大阪に帰つて、油掛町の美吉屋五郎兵衛の家
に潜んだ。五郎兵衛は阿波国脇町の士塩田氏の後にして、大阪に出て更
紗染を業とし、其妻は即ち中斎の妻ユウの姉であつた。盟軍今次用ふる
所の旗幟は、皆其の手に成つたと称せらる。従つて五郎兵衛は既に奉行
所の糾問を受け、町預けとなつて居たが、父子は其家の離座敷にかくま
はれた。
もと
さて灯台下暗しで、二月下旬から三月上旬へかけ、盟軍中の重もだつ
た者は、或は自殺し、或は自訴し、或は捕縛されたが、中斎父子の踪跡
わか
はとして判らない。大阪城代は人相書を四方に廻して之を物色し、水
陸とも警戒を加へたが、風声鶴唳の言葉に漏れず、人心の動揺甚しく、
廿三日、京都の所司代が大阪の残党が丹波に隠ると聞き、亀山、淀、郡
山の三藩に出兵を命じ、又た廿六日には、幕府が郡山、姫路、尼崎、篠
山、岸和田五藩に大阪出兵を命ずるなどの珍事があつた。既にして三月
廿六日となつた、偶々美吉屋の婢が自家に帰つた、其は平野郷の者であ
る。此婢が語るに、主家の人数は常の如くなるに、飯米の量が急に増加
したのは不思議であると。村人は之を城代土井大炊頭の陣屋に訴へた。
大炊頭は奉行に命じて主人五郎兵衛を糾問せしめ、其実を獲た。二十七
日暁天、城代、奉行、各部下数十を遣つて美吉屋を包囲した。捕吏躊躇
せる間に、屋内に轟然として砲撃響き、火起る。捕吏惶惑して近づかず。
火稍歛まるを待つて之を探れば、僧形なる二人の死屍出づ、惣身焼爛す
るも、中斎父子に疑なしと、勇んで引上げ、城代は之を天下に発表した。
然かも人心は猶静らず、或は父子潜んで、九州に在りと云ひ、又支那に
遁たるとさえ言ふた。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その121
風声鶴唳
(ふうせいかくれい)
おじけづいた人が、
少々のことに驚く
こと
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その122
惶惑
(こうわく)
おそれ、うろた
えること
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