Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.8.18

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その69

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第二十四章 中斎父子の末路 附 捨札 遺族(1)
管理人註
   

 十九日夜、中斎父子其跡を晦ますや、一旦大和路に入り、又た河州路 に立戻り、廿四日夜、再び大阪に帰つて、油掛町の美吉屋五郎兵衛の家 に潜んだ。五郎兵衛は阿波国脇町の士塩田氏の後にして、大阪に出て更 紗染を業とし、其妻は即ち中斎の妻ユウの姉であつた。盟軍今次用ふる 所の旗幟は、皆其の手に成つたと称せらる。従つて五郎兵衛は既に奉行 所の糾問を受け、町預けとなつて居たが、父子は其家の離座敷にかくま はれた。      もと  さて灯台下暗しで、二月下旬から三月上旬へかけ、盟軍中の重もだつ た者は、或は自殺し、或は自訴し、或は捕縛されたが、中斎父子の踪跡      わかとして判らない。大阪城代は人相書を四方に廻して之を物色し、水 陸とも警戒を加へたが、風声鶴唳の言葉に漏れず、人心の動揺甚しく、 廿三日、京都の所司代が大阪の残党が丹波に隠ると聞き、亀山、淀、郡 山の三藩に出兵を命じ、又た廿六日には、幕府が郡山、姫路、尼崎、篠 山、岸和田五藩に大阪出兵を命ずるなどの珍事があつた。既にして三月 廿六日となつた、偶々美吉屋の婢が自家に帰つた、其は平野郷の者であ る。此婢が語るに、主家の人数は常の如くなるに、飯米の量が急に増加 したのは不思議であると。村人は之を城代土井大炊頭の陣屋に訴へた。 大炊頭は奉行に命じて主人五郎兵衛を糾問せしめ、其実を獲た。二十七 日暁天、城代、奉行、各部下数十を遣つて美吉屋を包囲した。捕吏躊躇 せる間に、屋内に轟然として砲撃響き、火起る。捕吏惶惑して近づかず。 火稍歛まるを待つて之を探れば、僧形なる二人の死屍出づ、惣身焼爛す るも、中斎父子に疑なしと、勇んで引上げ、城代は之を天下に発表した。 然かも人心は猶静らず、或は父子潜んで、九州に在りと云ひ、又支那に 遁たるとさえ言ふた。


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その121

















風声鶴唳
(ふうせいかくれい)
おじけづいた人が、
少々のことに驚く
こと





石崎東国
『大塩平八郎伝』
その122










惶惑
(こうわく)
おそれ、うろた
えること


『大塩中斎』目次/その68/その70

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