Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.8.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その71

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第二十四章 中斎父子の末路 附 捨札 遺族(3)
管理人註
   

 中斎の家族は、妾ユウ、格之助妻ミネ、其幼児弓太郎、養女イク、婢 リツ五人であつた。中斎は事変の避く可らざるを察し、二月七日、病気 静養を名として右の家族を河内般若寺村親戚にして同志の一人、庄屋橋 本忠兵衛の許に托した。忠兵衛は心に安んぜず、更に五人を伴うて、十 五日、知人なる摂津伊丹の紙屋幸五郎の家に移した。十九日事件の夜、 忠兵衛は右の遺族を伊丹に訪ひ、事変の顛末を告げ、中斎の遺命を伝へ て自裁を勧めたが、幼児女を殺すに忍びず、窃に京都に入り、二十七日、 官に捕へられた。  此の事変は二月十九日の一日に畢り、両軍の衝突は前後三回に過ぎな かつた。実は盟軍計画齟齬の為め此に終つたが、予定通り先づ美事両奉 行を討取り、其勢に乗じて大阪城に向はば、事は一層大きくなつたであ らう。然かし奸吏驕商を膺懲する目的は十分達した、且つ之が為め幕府 は近藩の兵を動かすこと凡そ十余藩に及び、各方面の要害や関所を固め て万一に備ふるなど、実に天草乱以後の大事件を醸し、徳川幕府の心胆 を寒からしめた。其結果は有形の無形に大なるものがあったと思ふ。但 た此事件に依り、火災蔓延、殆ど大阪の半を焼き、且つ物価は昂騰し、 市民は一層困惑に陥つたのは、気の毒であつた。然かし其にも拘らず、 市民は大塩様というて中斎に敬称を用ふることを忘れれぬは、果して何 を語るであらうか。



石崎東国
『大塩平八郎伝』
その121















畢(おわ)る

石崎東国
『大塩平八郎伝』
その123
 


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