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我が有史以来、兵乱、禍変は数ふるに勝えぬ、正邪是非の評論も大抵
帰一する所がある。然るに天保度の中斎挙兵に至つては、世論はまだ定
らない、否な、大抵は之を乱兵として視て居る、果して乱民であらうか。
中斎が初めは剛獅ノして激し易い人物であつたことは事実である。而か
も前篇中篇で述べ来つた如く、辛苦修練、良知に本づき、太虚を的とし、
仁孝を宗とし、気質変化を勉め、堂々たる儒者となつた。殊に中年後仕
途を離れ、読書講学勉めて世局と遠かつた。而かも其人にして古来曾て
例しなき事変を引起して一世を聳動したるは、之を如何に批判せんか。
幕府が裁定した「大塩平八郎父子捨札」の内容は、捏造羅織を以て満
たされて居ることは、幕府側の人も弁護の余地は無からう。然かし大儒
佐藤一斎の如きすら、兇漢逆賊と見て居る。是は一斎には限らない、多
少程度の差はあるも、同じ見解に立つ学者士人は少くは無からう。最も
有名で而かも中斎に不利なる話の一つに左のやうなことがある。是は中
斎を信任した当時の名奉行矢部駿河守が後年人に語つたのを、藤田東湖
が東湖随筆に記して居る。
平八郎は、所謂癇癪の甚しき者なり。与力を務むる内、豪商を折し、
市民を救ひ、奸僧を沙汰し、邪教を吟味したる類、天晴の吏といふべ
し。又学問も、有用の学にて、中々黄吻書生の及ぶべきにあらず。某
矢部 奉行在役中、度々燕室へ招き、密事をも相談し、又過失をも聞き、
益を得る浅少ならず、言語容貌決して尋常の人にあらず。某曾て平八
かながしら
郎を招き、共に食を喫せし折節、金頭と云へる大魚を炙り出せり。時
に平八郎、憂国の談に及ぶ時、忠憤の余り怒髪衝冠とも云ふべき有
様故。余程に慰諭しけれども、平八郎益々憤り、金頭の首より尾まで
バリ/\噛み砕きて食ひたり。翌日に至り、家宰某を諌めて曰く、昨
夕の客は狂人なり、夢々高貴の御方可近にあらず、爾来奥通り指留
め給へと。実に某が為を思ひて云ひけれども、汝が知らん所に非ずと
て、始終交を全ふせり。此一事、小なりと雖も、平八郎の人となりを
知るに足れり。
此の話は東湖の筆に成り、東湖の人物の有名になつたと共に、此話し
は有名になつた。其かあらぬか、深く中斎の学術思想事変の由来を考察
せず、一概に癇癪玉の破裂せし結果と早断する者多きは、其遺憾に勝え
ぬ所である。
同じ矢部駿河守の話であるが、左の論評が東湖随筆に載つて居る。
平八郎叛逆人といへども、駿河の案には叛逆とは存ぜず候、(中略)
駿河守其事を仕置せん時には却つて平八郎年来の忠憤はさることなが
ら、憤激のあまり其跡叛逆に等しきことを仕出したるは。上をも畏れ
ざる大不敬と云へることに裁判せば、平八郎死せりといへども、甘ん
じて其罪を受け、又た大阪の人心をも圧倒すべし。
これは流石に矢部名奉行である。叛逆にはあらず、其跡叛逆に等しく、
上に畏れざるおお不敬といふ、如何にも名判決に近いであらう。
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勝(た)えぬ
川崎紫山
「矢部駿州」
その9
黄口
(こうふん)
年が若く経験
が浅いこと
桜庭経緯
「矢部駿州と
大塩平八郎」
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