Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.4.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


「中斎の人格」
その3
山片平右衛門

『片つ端から−迷舟遺稿集−第1巻』山片重次 1931 所収

◇禁転載◇

 管理人註
 

其Lて一事件が起ると係りの者の手に渡るまでに上から下へと隅々まで運動が行き 届いてあつて情実本位で所決せねば自分達の身の上に不利であつたとのことであ る。 今の裁判に収賄は絶無であるが、貧亡の被告は弁護士の報酬に事を欠いで不利で ある。議員の選挙に運動費の多寡、公私の就職に実力と縁辺の軽重は言ふだけが 野暮で相撲の勝負さへも八百長は昔から稲川鉄が嶽の取組に型を残してゐる。只 正直なのは博打の勝負ばかりだ。大岡越前が歴代の名奉行と言はれたのも将軍の 知遇で情実を排することが出来た為めで、あの位の捌きは常識さへあれば誰れに も出来たのである。大塩の執務も平凡であつたに違ひ無いけれども、此平凡は例 の硬直の気性だから出来たのであつて、其事蹟は市中の大評判を博した代りに役 人仲間では持て余されたのである。大岡は知遇があつても学問が無かつたから手 腕が司法の範囲に限られて身を全うしたが、大塩は知遇が無かつた代りに学問が あつたゝめ所見を行政の範囲に延して身を誤まつたのである。                豊田 大塩の事蹟で一番著名なのは京の福岡貢と言ふ妖婆の処分であつた。妖婆なんか 高が迷信の愚に乗じてゐる嘘付であるが、年中白衣緋袴の押し出しで、折々は禁 裏へも出入する横着者を「正法に不審議なし」と手軽く片付けた大塩は平凡な事 を為ただけのことである。けれども何しろ迷信の深い時代に相手の法螺が利いて ゐたので其峻烈は時人に舌を巻かしめ、神通の妖女を刑して崇りが無けれぼよい との世評が立つたと云ふ。              ・ これまでが大塩の声望を博した期間で、これから傾運の方に向つたのである。貢 の一件は折々大阪へも来て例の妖言を放つたのであるが、元来が京都所司代の管 下に属することで大阪の町与力として処分するのは少々出過ぎである。而かも事 件は法とLて問ふべき事柄で無い。一つの思想問題である。唯治安の上から行政処 分として宗教の範囲を脱したる妖怪的行為を禁ずれぼよいので斬に処したのは乱 暴である。 儒道では「怪異を談ぜず」とあれども、談ずる者に迷ふな取合ふべからずとの意 を、討滅すべしと考へたのは過激である。「鬼神は敬して遠ざくべし」位の解釈 で追放位が穏健の処置であつたのだ。 大塩は私人として学問の声名はあつたが吏人としては高が位置の低い町与力であ る。其れが其低位置の権能を私見の上に濫用して、仮令誠意に出でたることなり とは云へ、わざ/\京まで行つて衆人の崇拝する祠を壊つたことは世俗の思惑を 顧慮せなんだとの批判は免れぬ。 貢はプロパカンダに依つて迷信者を集めてゐるので、悪いと言ふても其れは私人 であり、又其善悪は見方にあることである。大塩の行為は吏権の濫用である。 新宗教の発足には明僧と雖も随分怪異を用ゐたのである。旧思想より之れを嫉悪 視するは偏狭である。新思想の危険は其宣言の手段が急なる為めに、旧思想中の 頑迷連より誤解されて衝突の事変を促すからである。若し拍手の音が如何にして 発するかを解せば、異説は之れを研究して其取捨を明示すべきが旧思想の義務で ある。盲目的の排斥は其危険なる点に於て旧思想も異る処が無いのである。貢の 事件以来大塩に対する世人の思惑は敬慕よりも恐怖の方に傾いて釆た。大塩は重 視さるゝより敬遠されて、成るだけ事件を取扱はさず閑職の方へ廻されたのであ る。尤も城代の方でも大塩の人格は理解されてゐて少なくも濁世の清涼剤位には 考へられてゐたのであるが、何分にも余りに辛辣すぎて役人仲間で持て余まされ てゐた処へ、四周の人気が変つて来たので、今まで卓識の学者であり廉潔の良吏 であつた大塩は胸情悶々多少共に心性を変じ、唯さへ曲折の乏しき大塩は我れ知 らず短気焦慮になつて来たのである。

































豊田貢一件
幸田成友
『大塩平八郎』
その30
「浮世の有様
文政十二年切支丹始末」
その1


「中斎の人格」目次/その2/その4

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