Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.6.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その1

雄山閣 編

『類聚伝記大日本史 第10卷』 雄山閣 1936 収録

◇禁転載◇

大塩平八郎  寛政五年生 天保八年二月歿
 一 経歴一般 その一 (1)

管理人註
   

 大塩の乱を以て人口に膾炙せる大塩平八郎は、豪邁不屈の人物にして 自信強く、時として慓悍なる挙動を現する性格の所有者であつた。而して 彼は陽明学を奉じ、知行合一を信条とし、実践に重きを置いたが故に、そ の直情逕行の性格と相俟つて、当路者と相容れない分子を多分に蔵してゐ た。  平八郎、姓は大塩、名は後素、字は子起、中斎と号した。平八郎はその 通称である。平八郎は徳島藩家老稲田九郎兵衛の臣真鍋市郎の二勇にして、 寛政五年を以て、阿波国美馬郡脇町に生れた。幼にして母を喪ひ、母の縁 故により、大阪の塩田喜左衛門の養子となり、後故あつて同家を去り、天 満町の与力大塩氏の養子となつた。時に七歳であつた。然るに養父母はそ の年を以て歿したので、養祖父政之丞の手に育てられた。やがて江戸に赴 き、林述斎の家塾に入り、儒学を講究し、刻苦精励して常に儕輩を凌駕し た。こゝを以て述斎も大いに嘱望し、他の諸生を誡むるに、必ず学問躬行 宜しく平八郎に則るべきを以てした。中斎自ら「祭酒林公亦愛僕人也」 と云へるを以て這般の消息を察し得よう。かくして従学数年、会々養祖父 重症に罹れりとの報に接し、急遽帰阪し、看護に努めしが、その甲斐も無 く、終に文政元年六月二日を以て世を去つた。こゝに於て中斎は家に留ま つて与力の業を勤めた。時に年二十有六であつた。


慓悍
(ひょうかん) 
すばしこく、
しかも荒々し
く強いこと





幸田成友
『大塩平八郎』
その7


二勇
「二男」か


幸田成友
『大塩平八郎』
その9





儕輩
(さいはい)


幸田成友
『大塩平八郎』
その174

這般
(しゃはん)
このたび


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