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大塩の乱を以て人口に膾炙せる大塩平八郎は、豪邁不屈の人物にして
自信強く、時として慓悍なる挙動を現する性格の所有者であつた。而して
彼は陽明学を奉じ、知行合一を信条とし、実践に重きを置いたが故に、そ
の直情逕行の性格と相俟つて、当路者と相容れない分子を多分に蔵してゐ
た。
平八郎、姓は大塩、名は後素、字は子起、中斎と号した。平八郎はその
通称である。平八郎は徳島藩家老稲田九郎兵衛の臣真鍋市郎の二勇にして、
寛政五年を以て、阿波国美馬郡脇町に生れた。幼にして母を喪ひ、母の縁
故により、大阪の塩田喜左衛門の養子となり、後故あつて同家を去り、天
満町の与力大塩氏の養子となつた。時に七歳であつた。然るに養父母はそ
の年を以て歿したので、養祖父政之丞の手に育てられた。やがて江戸に赴
き、林述斎の家塾に入り、儒学を講究し、刻苦精励して常に儕輩を凌駕し
た。こゝを以て述斎も大いに嘱望し、他の諸生を誡むるに、必ず学問躬行
宜しく平八郎に則るべきを以てした。中斎自ら「祭酒林公亦愛僕人也」
と云へるを以て這般の消息を察し得よう。かくして従学数年、会々養祖父
重症に罹れりとの報に接し、急遽帰阪し、看護に努めしが、その甲斐も無
く、終に文政元年六月二日を以て世を去つた。こゝに於て中斎は家に留ま
つて与力の業を勤めた。時に年二十有六であつた。
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慓悍
(ひょうかん)
すばしこく、
しかも荒々し
く強いこと
幸田成友
『大塩平八郎』
その7
二勇
「二男」か
幸田成友
『大塩平八郎』
その9
儕輩
(さいはい)
幸田成友
『大塩平八郎』
その174
這般
(しゃはん)
このたび
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