Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.6.30

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その2

雄山閣 編

『類聚伝記大日本史 第10卷』 雄山閣 1936 収録

◇禁転載◇

 一 経歴一般 その一 (2)

管理人註
   

やがて文政三年十一月十五日、高井山城守実徳が、伊勢山田奉行より転じ て大阪東町奉行となるに及んで、平八郎はその知己を見出した。山城守は 忽ちにして平八郎の才気絶倫なるを看取し、吟味役に抜擢した。これより 平八郎は充分その驥足を伸ばすことを得た。当時大阪の吏人不法無状を極 め、賄賂請託が公然行はれてゐたのを断乎として刷新の実を挙げたのであ る。彼が与力として断獄に当るや、いかなる難訟も殆んど竹を割るが如く、 些の渋滞もなく処理されたのである。かの文政九年妖婦豊田貢を処分した ことは人の喧伝せる所であるが、その概略を述べるならば、肥前浪人で水 野軍記と云ふ者が、京師に僑居し、表面易術を看板としてゐたが、内実は 怪しい祈祷等をなして愚民を誑惑してゐた。貢はその奥秘を伝へたもので あると自称し、京畿の間を徘徊して愚民を惑した。その奉ずる所は神儒仏 を離れ、頗る奇怪の行為があつたので、当局も屡々野を捕へて糾弾したけ れども、貢は女子ではあつたが、稍々学識があり、且つ弁舌が巧みであつ たので、遂に伏罪せしめることが出来なかつた。故に日を遂うて名声愚民 の間に高く、彼を目して活神仏となすものさへあつた。平八郎は之を怒り、 百方秘計を尽して、彼の教旨の奥秘なるものを探知し、妄誕無稽の邪説を 以て良民を惑すとなし、遂に貢以下其徒数人を磔死罪等の厳刑に処し、 邪教は頓に跡を絶つた。又其の頃大阪西町の組与力に弓削新右衛門と云ふ 者があって、多くの邪悪の徒を爪牙となし、良民を苦しめることが特に甚 しかつたので、その怨嗟の声は都鄙に嗷々たるに至つたが、何人も敢て之 を弾圧するものはなかつた。平八郎は山城守の命を受けて、急に彼の宅を 襲ひ、彼に迫つて切腹せしめ、尋でその党数十人を捕へて獄に投じた。又 新右衛門の家宅を捜索して得た贓金三千両は、悉く之を市井の窮民に賑恤 した。更に僧侶の風儀を紊す者を流刑に処したこと等は最も有名なことで あり、それらの事柄があつたゝめに、彼の名は早く遠近に聞えた。斎藤拙 堂の書簡に曰く、  従三都以達諸州、皆刮目圜視、吐舌駭歎、或聞風而起者有之、  名声隠然動天下矣、足下執事纔数年耳、乃能赫々、如此、 とあるが、当時の状を想見するに足る。この時に当りて、平八郎にとつて 不幸な事態が起つた。即ち文政十三年七月、山城守は七十歳の老齢を以て 骸骨を乞ふたのである。平八郎は今や事の為すべからざるを知つて、山城 守の辞職が允許されざるに先だつて致仕し、養子格之助をしてその職を継 がしめた。時に平八郎は三十七歳であつた。その折ものせし「辞職之詩并 序」がある。左に録しよう。



幸田成友
『大塩平八郎』
その12



驥足
(きそく)
才能のすぐれ
た人物




幸田成友
『大塩平八郎』
その30


僑居
(きょうきょ)
すまいをする
こと

誑惑
(きょうわく)
人をだましまど
わすこと







妄誕無稽
(もうたんむけい)
荒唐無稽に同じ、
根拠がなく、で
たらめなこと


幸田成友
『大塩平八郎』
その25







幸田成友
『大塩平八郎』
その29





島本仲道
『青天霹靂史』
その53






骸骨を乞ふ
辞職を願い出る


「大塩平八郎」目次/その1//その3

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