Я[大塩の乱 資料館]Я
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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎 挙 兵 の 顛 末」
その6

『商業資料』大阪経済社 1894.4.10 所収


◇禁転載◇

適宜、読点・改行を入れています。


商業資料 明治二十七年四月十日

大塩平八郎挙兵の顛末(其六)

同月同日を以て又復(また\/)左の如く告示せられたり



かくて同じき三(二)月十九日のことなりとか、近藤梶五郎は天満なる焼失跡へ来り、日来面識(かおなじみ)の馬借某に会ひて、我が母の存亡を尋ねたる由にて、其の時は室(さや)刀身の手巾(てぬぐひ)もて巻包みたるを提げ居たりとか、右馬借の者より早速其の趣を町奉行所へ上申に及び、因て直に捕吏を遣したるに、此の時已に梶五郎は自殺したりけるにぞ、捕吏等も空しく引去りけりとぞ

又其の前夜、大塩父子三好屋某方を訪ひたりと云ひ、或は二十日頃より同家にて之をかくまひ置きたりとも云ひ、孰(いづれ)か信なるや、未之をつまびらかにすること能はざれども、元来此の三好屋某は紋花布(さらさ)染工にして大塩父子の暴挙を賛成し、動乱の当日用ひたる旗幟の類を其の家にて製し、又其の後堂に八分厚板もて厳重に四方を塞ぎたる密室を設け、地下に坑を通じて潜に出入往来するの便に供するなど、大に之が助勢を為しけるより、終に其の家は欠所と為り、其の身は責付(当時之を所あづけと称せり)と為りて後刑罰に処せられたり、

又一説には、同じ年の二月二十四日より大塩一味の輩を右の密室内にかくまひ置きたるに日を経ておひ\/逃走し特(ひとり)大塩父子のみ留り居たるなりとも云へり、

主人(あるじ)が責付の身と為りて後は、当該官庁(そのすじ)より人を遣りて之を警固せしめけるが、此の時は役(彼)の密室は已に主人が其の証跡を没せんとて、みづから火を放ち焼棄てたる後にして、嘗 て之を実見したる者なかりしとなん、盖(けだし)三好屋某がかくまでに大塩父子の為に力を尽すに至りし原因を繹(たづ)ぬるに其が女(むすめ)某をして大塩平八郎が家に下婢たらしめたるより、しば\/出入往来し、其の意気の相投じたるが為、遂に此に至りしものなりとぞ、

又暴挙前の事なりしとか、大塩平八郎は一日摂州能勢郡辺の者数十人へ金二朱宛を与へ、因て云ひけるは、吾近日の中に猪を猟獲んと思へり、其の期に至らば、おの\/吾に力をそへよとて犒(ねぎら)ひ帰しけり、是其の暴挙を助けしめんとの意なりしなるべし、是亦当該官吏の聞く所と為り、暴動後、右の者ども一々召喚せられ、審聞を受けたり、

大塩以下党与の中、自殺したる者の死骸は悉く塩漬と為しゝが、之がため費せる塩の量七十俵許なりしといふ、

又其の党類中の一人竹上万太郎と云へる者は有馬に潜伏したりけるが、大阪の現況を探らんとて、彼の地を立出で、大阪へおもむかんとしけるに、途中に同心待うけ居りて、遂に之を捕縛せり、其の時万太郎は小刀(わきざし)のみを帯び、刀は菰に包みて背(せなか)に負ひ居たりけるが、就縛の際捕吏に語りけるは、今日大阪へおもむきて、大塩以下の発落を探聞し、尋(つい)で摂州多田院へ抵(いた)りて自刃せんとこそ思ひつれ、然るに今かく縛に就きたること、又奈何(いかん)ともし難し、とて打嘆きけりとか、

庄司儀左衛門は大砲方にて、暴動の日砲発せしめんとするに、其の弾薬の装注、宜しからざりしにや、発せず、因て左手を砲門(つゝぐち)に入れ之を探りしより、弾薬爆発して、左手之が為に傷爛したるも、猶屈せずして馳駆奔走したりと云ひ、

又、松本林太夫は、縛に就き、審問を受けし時白(まを)しけるは、大塩平八郎が潜伏の地も知らざるにあらねど、かくと告げたればとて、今猶其の地に潜伏し居らんこと固より必し難し、されば若(もし)かくと告げて、今其の地に潜み居らざらんには、却て虚偽を設けたりとの責を蒙るに至らんのみ、寧(むしろ)御奉行の御威光に依り、探偵せしむるの勝れるに如かず、とて百方推問するも、終に白状せざりしとぞ、

却説(さて)暴動の後、物価日を逐ひて昂騰し、白米一石に付二百五六十匁、黒豆同二百匁位、其のほか小豆、蠶豆(そらまめ)、麦などに至るまで、こと\゛/く高価と為り、市民の困窮すること日に甚しかりけるより、富豪の商家などにて、それ\/米銭を施与しけれども、貧民の餓死するもの頗る多く、之を見聞する者、みな酸鼻せざるはなかりしとなん、


人相書 1」(画像)
人相書 2」(画像)
「浮世の有様 巻之六 大坂焼失後町人施行 その6
森鴎外「大塩平八郎」その11「信貴越」
森鴎外「大塩平八郎」その12「美吉屋」
猪俣為治「大塩平八郎」その46
徳富猪一郎『近世日本国民史 文政天保時代』「第二章 大塩事件の終局」


「大塩平八郎挙兵の顛末」目次その5その7

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