Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.10訂正
2000.11.5

玄関へ「浮世の有様」目次(抄)


「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

大塩の乱 その23

 













  大塩平八郎同格之助自殺之事

新靱油掛町土橋筋より、一筋西の辻を西へ入る南側角より二軒目に、美吉屋五郎兵衛といへる皿砂(さらさ)染を家業とする者有り。此者元来、本町筋心斎橋筋を西へ入る北側にて借家住居なりしが、八年已前当時の家を買求めて引移りしといふ。

家内二十人計りの暮しにて、商売も大いに繁昌して有福の暮しなりといふ。此者年久しく大塩方へ出入するに、元来至つて律義なる者事、平八郎常に此者を愛せしといへり。

然るに二月十九日、平八郎乱妨・狼藉せし時に用ひたる桐の紋付きし旗をば、五郎兵衛が染めたる由なるにぞ、早速に御召捕に相成り、何か御吟味有りしに、「右様の事に用ゆる旗なる事をば更に知らず、只一通の事に心得て、何心なく染めたる由」を申上ぬれ共、御上を犯せる大罪人に係合ある者なれば、宿下げにはなりしかども町内へ御預に仰付られしかば、昼夜町内より番人を付て、之を守らしむる事巌重の事なりといふ。

 
 





然るにいかゞして隠し忍ばせぬるやらん、此家に大塩親子を囲まひ置きぬる由上聞に逹し、三月廿六日申の刻より、御手当有りて所々の固めをなし、夜に入つては其家の四方を数百人にて取巻き、何れも火事装束なれども下には著込せしといふ。





 







終夜此の如く取巻て廿七日の朝に至りしに、かく大勢にて取巻きし事を大塩親子心付きしと見えて、其家 此家裏にて大に未申へ張出せし屋敷にして、表借家との境に塀有て、其内は蔵なり。其蔵の南手に六畳敷の離座敷ありて、其家に隠れ忍びしといふ。其南は信濃町にして、境目の大水道有りて、東の方は母屋に続きて納屋抔有り。其後の方に有れる小座敷なれば、人の心付かぬ処なりといふ。又前以てよりして、こゝに忍ばせぬる心積にて有りしやらん。昨年この屋敷を普請せしに、壁は悉く松の三寸板にて其両方を土にて塗り、戸の締りは三重の締りにして、堅固なる普請なりといふ事なり。 に火をかけ両人共自害して、火に焼け焦れしといふ。

斯くて捕手の方には、西与力内山藤三郎 *1 火の手上れるを見て、近辺の家毎に杣を入れさせ、其家の火を打消させて、漸々真黒に焦れし屍を取出し、これを戸板に載せて信濃町の会所へ持運び、五郎兵衛は申すに及ばす、妻子召仕まで悉く引括り、之も同処へ引立て行きし上にて、其旨上聞に達せしかば、西町奉行にも早速に馳付けこれを見分せられ午の刻過に至り両人の屍を駕籠 此駕籠は美吉屋の隣へ、天満より焼出されて来りたる片岡何とやらんいへる医者の乗物にて、其棒を切縮めて之を用ひしといふ。此医者も隣家の事ゆゑへ会所へ呼出され何か御礼有しといふ。 に乗せ、之をあら縄にて巻きたて、大文字に下げ札に其名を記し、其跡に又、五郎平衛を縄付けにし之も同じく駕籠に乗せ、左右の垂れを引上げて、其面を晒さしめて、心斎橋筋を高原へ連行きしといふ。

大塩親子の屍真黒に焦れし事故、其形分り難く、やう\/と何れも兼ねて見覚有る両人の大小を目当に之を定めしといふ事なりし。

美吉屋五郎兵衛を吟味有りしに、かゝる大罪人を囲ひ置く程の事なれば、始めよりしてかくなれる事は覚悟せし事なれば、「私の命は少も惜しき事なし。いか様なる厳科にも行ひ給ふべし」とて、平気にして少もわるびれし様子なし。此者の年は五十三なりといふ。

又妻子を吟味あれども、大塩が忍び有る事をば更に知る事なしといふ。又下女も同様の事なり。されども折々握飯せよといはるゝ故、何故にかく握飯の入りぬる事やらんと、いぶかしく思ひしといひしとぞ。

 


管理人註
*1 内山彦次郎


大塩平八郎終焉の地碑
井形正寿「大塩平八郎終焉の地について
井形正寿「美吉屋五郎兵衛の家業についての考察
森鴎外「大塩平八郎」その12「美吉屋」


「大塩の乱」 その22/その24
「浮世の有様」大塩の乱関係目次

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ