Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.8.19訂正
2000.7.25
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その12
猪俣為治
『朝日新聞』1898.9.30/10.1 所収
朝日新聞 明治三十一年九月三十日
大塩平八郎 (十四) 猪俣生
其四 遊歴及著述(続)
六月に至りて、平八郎ハ門生及従僕を率ゐて近江に赴き、中江藤樹先生の墳墓に小川村に謁し、先生の門人某の苗孫志村周二に就き、其旧書院に上り、神主を拝し、書画及び旧衣裳の尚ほ存するものを欣賞せり、昔三輪執斎の其旧学を棄てゝ陽明学を奉ずるに至るや、禄を致して近江に遊び、藤樹先生の旧里に於て、里人を集めて書を講ぜり、執斎素と弁に長ずるもの、故に音吐朗々として四座為に感動し、聴者翕然(きふぜん)以て藤樹先生の再生とせり、是皆王派の学を修むるものゝ如何に其学ぶ所に忠実なるかを知るに足れり、
平八郎の此行に於ける琵琶湖上の変や、彼が冨嶽に登りて石室に著書を蔵したる一事と共に、彼の歴史中出色のものたるを以て、今左に彼の自筆に成れる紀行文を訳出す可し、
壬辰の夏六月、予閑逸無事なるを以て、浪華を発し、伏水に至り、江州に之き、湖に泛びて中江藤樹先生の遺跡を小川村に訪ふ、小川村ハ西江比良嶽の北に在り、先生ハ我邦の姚江(てうかう)の開宗なり、其墓に謁し、其容儀道徳を想像し、涙墜ちて臆を沾(うるは)せり、其書院存すと雖も而かも今先生の学を講ずるものなし、其門人の苗裔にして医を業とするもの乃ち之れを監守すること守姚の如く然り、予是に於て詩を賦す、詩に曰く、
院畔古藤花尽時、
泛湖来拝昔賢碑、
余風有似比良雪、
流滅無人致此知、
帰る時、大溝港口に於て船を買ふ、予と従ふ所の門生及家僮の四人のみにして、更に同舟の人なし、再び湖に泛び、南、坂本に向ひ、将に吾郷に還らんとす、而して大溝より坂本に至るにハ、水程凡そ八里許、纜(らん)を解き【糸肖】(せう)を結べバ、既に未申の際なり、而して日晴れ浪静かに、柔風の颯々たるあるのみ、小松近傍に至りて北風勃起し、湖を囲むの四山各声を飛ばし、狂瀾逆浪、或ハ百千の怒馬の陣を衝くが如く、或ハ数仭の雪山の前に崩るゝが如し、他舟皆既に逃れて一も有る無し、其帆を張る至低三尺強にして、其怒馬に乗じ、其雪山を踏み、以て直前勇往、箭(や)
の如く馳するもの只吾一舟あるのみ、忽にして鰐が津に至る、甞て聞く鰐が津ハ、平日風なき時と雖も回淵藍染、盤渦谷転して、巨口太鱗の遊泳出没する所なりと、乃ち湖中の至険なり、况んや風波震激するの時をや、篷(ほう)を推して水面を見れバ、所謂地裂天開の勢あり、奇なるかな颶風(ぐふう)忽ち南北両面より吹来りて軋る、故に帆腹の表裏、饑飽(きはう)定らず、是を以て舟進みてハ又退き、退ぞきてハ又進み、右傾けバ則ち左昂(あが)り、左傾けバ則ち右昂り、踊るが如く舞ふが如く、飛沫峻濺(しゆんせん)、篷に入り、牀を侵し、実に至急の秋なり、舟子呼びて曰く、他舟皆幾を知る、故に之を避く、某の如きハ独り誤まりて前知する能はずして乃ち此に至る、吁、命なるかな、然りと雖も面目の客に対すべきなしと、吾其言意を察するに、共に魚腹に葬らるゝの患を免かれざるに似たり、因りて却て舟子を喩(さと)して曰く、爾の誤まりて此に至る命なり、則ち吾輩此に至るも亦命なり、倶に之を如何ともすべきなし、只天に任すのみ、何ぞ患ふるに足らんや、
朝日新聞 明治三十一年十月一日
大塩平八郎 (十五) 猪俣生
其四 遊歴及著述(続)
門生家僮(かどう)ハ既に悪酒に酔るが如く、頭痛み、眼眩み、其心覆溺を慮るものゝ如し、予と雖も実に以て死せりと為せり、故に憂悔危懼の念を起さざるを得ず、是時忽ち藤樹書院に作る所の無人致此知の句を憶ひ、心口相語りて曰く、此即ち其良知を致さゞるの人を責るなり、而して我ハ則ち憂悔危懼の念を起して若し自ら之を責めずんバ、則ち躬を待つ薄くして、人を責むること却て厚し、恕に非ざるなり、平生の学ぶ所将に何れに在んとするやと、直に良知を呼起せバ、即ち伊川(いせん)先生の存誠敬の言、亦一時に并起し来る、因て其飄動(へうどう)中に堅坐すれバ、乃ち伊川陽明二先生に対するが如く、主一無適、我の我たるを忘る、何ぞ况んや狂瀾逆浪をや、故に憂悔危懼の念湯の雪に赴くが如く、立ろに消滅して痕なし、此より凝然動かず、而して颶風も亦自ら止み、柔風依然として舟を送り、終に阪本の西岸に着く、此豈天に非ずや、時に夜既に二更なり、門生家僮皆回生の思を為し、互に恙なきを賀し、遂に阪本に宿せり、明早天晴る、天台山に登り、四明の最高を尽し、而して東北を俯視すれバ、則ち湖なり、畴昔(ちうせき)経歴せし所の至険ハ、皆眼中に入り、風浪静にして遠邇(ゑんじ)朗かに、実に一大鏡なり、漁舟点点黶子(てんゑんし)の如く、帆檣(はんしやう)数千、東去西来して平地より易く、危懼すべきものなきに似たり、是に於て門生余に謂て曰く、昨の憂悔危懼ハ抑々夢か、亦天吾師を譴むるか、余曰く、否、夢に非ずして真境なり、天譴に非ずして我を金玉にするなり、何となれバ其変に逢ふに非ざれバ焉ぞ真良知、真誠敬を窺ふを得んや、又焉ぞ真に伊川陽明両先生に対するを得んや、故に曰く、真境にして夢に非ざるなり、我を金玉にするものにして天譴に非ざるなりと、然らバ則ち福にして禍に非ざるなり、賢輩亦徒に憂悔危懼の事を追思するなくして可なり、身心に益なきなり、且賢輩盍(なん)ぞ復夫の城邑を視ざる、其れ亦杖屐(ぢやうげき)の底に在り、蜂窩蟻垤(はうくわぎてつ)の如きものハ富貴の所同棲する所なり、故に我則ち却て小魯の興を得、心広く身裕に、眼豁(ほがら)かにして脚軽し、賢輩も亦宜しく共に此興味を与にすべしと、是に於て又詩を賦す、詩に曰く、
四明不独尽湖東、
西眺洛城眼界空、
人家十万塵喧絶、
只聴一禽歌冷風、
胸中益々灑(さい)々然として、一点の渣滓(ささう)なきを覚ゆ、因つて謂らく、吾輩纔(わづ)に其境に即きて、良知を呼起し、誠敬を存すれバ、猶且至険を忘了す、而して嶽に登り再び万死の処を顧みるも、心寒股慄(こりつ)せずして、湛々悠々、却て心に聖人同焉の興を得たり、而かも况んや伊川先生をや、昼夜を通じ語黙を徹して誠敬を存するときハ、其尭舜の事と雖も、只是太虚中一点の浮雲日を過ぐるが如しと謂ふもの、実見にして虚論に非らざる、断じて知る可し、
平八郎が胸中の江山、琵琶湖中の風波と相触れて此一段の奇観を呈出し、平八郎の面目風采の躍如たるを覚ゆ、王陽明先生の詩に曰く、険易原不滞胸中、何異浮雲過太虚、此詩移して以つて平八郎が脱然死生の外に立てる心境を况似すべきなり、
井上哲次郎「大塩中斎」その6
「大塩平八郎関係年表」
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