Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.8.19訂正
2000.7.26

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その13

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.2 所収


朝日新聞 明治三十一年十月二日
大塩平八郎 (十六) 猪俣生

  其四 遊歴及著述(続)

此歳の秋に至りて、山陽の血を吐き病革(あらた)まると聞くや、平八郎急馳して京都に上れり、到れバ則ち 山陽ハ其日を以て既に死す、因りて大哭して大阪 に帰れり、是に於てか彼ハ世上唯一の知人を失へり、

天保四年ハ平八郎が其著述に於て最も収穫多き年なりき、彼ハ此歳に於て洗心洞箚記及び儒門空虚聚語の二書を編術せり、箚記は則ち平八郎の学術に大関係を有するものなるを以て、別に彼が学術を論ずるの際に於て之を詳述すべしと雖、今姑(しば)らく其著述に関する当時の事情を略述すべし、

抑々洗心洞箚記ハ彼が学術の本領たる太虚説を説明せるものにして、彼が畢生の心血ハ此書に灑(そゝ)ぎ尽されたりと云ふも決して不可なきなり、意ふに彼が多年の考慮、幾多の工夫ハ、茲に聖胎の分娩を促がし、而して其一旦豁然大道に洞徹するや、天始めて朗かに、地始めて濶く、精神発越、意気激昂、殆んど手の舞ひ足の蹈むを知らざること、恰も希臘のアーキメデスが比重法を発見し「余ハ発見せり、余ハ発見せり」と大呼して、浴中より躍り出で、赤【身果】々の儘、室中を狂奔して已まざりしが如きものありしならん、故に此書の成るや、夏七月、彼れハ旅装を整ひ飄然として道程を東に取り、先づ伊勢に至り太廟を拝して一本を其神殿に納め、更に進み、富嶽に登りて一本を其石室に納めたり、実に彼れハ所謂本諸身、徴諸庶民、考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑、百世以俟聖人而不惑、の信用を此書に寄せしなり、夫れ士君子の言を立て、書を著はすや、其後世必伝を期すべきハ固より論なし、然れども平八郎の若く、東海に聖人出づることあるも必ず此言を易(か)へじ、西海に聖人出づることあるも必ず此言を易へじ、南海北海に聖人出づることあるも必が此言を易へじとの気宇と抱負とを以て、書を著はしゝもの世上其れ幾人かある、男子学ばずんバ則ち已まん、苟も書を読み道を講ず、豈亦 此抱負と気概となかるべけんや、其説の如何は暫く論せずとするも、唯此神殿に納め石室に蔵するの一事、世上幾千万の儒者を凌轢して、万丈の光焔を吐きたるものと云ふべし、世の学なく識なく墨を惜まず字を惜まず、唯書せんが為めに書し、唯説かんが為めに説くの輩、亦以て平八郎に省るなかる可けんや、彼れが富嶽に登りしハ恰かも七月十七日なり、当時詩あり曰く

何ぞ必しも之を詩と云はん、何ぞ必しも之を歌と云はん、境、心と感じて、語、口より出づ、後に至りて其二十八詩なるを知りたるのみ、彼の村学究の題を擇びて吟唱するが如きハ、平八郎の敢てせざる所なり、古来富嶽を以て詩文の題目と為したるもの一にして足らず、石川丈山は詩人として倒懸天半玉芙蓉の詠あり、荘子謙ハ文人として芙蓉峯記あり、然れども終に平八郎が哲学者として之を咏嘆したるの絶倫卓出なるに若かざるなり、試に思へ千歳の雪を踏み、万古の風に浴し、前に 瞳々として海面より昇る所の朝暾を望み、後に凄凉として虞淵に沈む所の残月を控へ、而して下界を俯暾すれバ、挙世昏々蒙々として五更灯下に睡酣狼藉たり、平八郎の此時の感慨其れ如何と為すや、世人の浅薄なる、徒に平八郎が其著書を富嶽に蔵したるの事実に驚くのみ、孰れか知らんや、此時平八郎の学術道徳ハ、既に衆嶽を瞰下する所の富嶽の地位に在りしなり、


井上哲次郎「大塩中斎」その7
大塩平八郎関係年表
大塩中斎絶板書目


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