その13
『朝日新聞』1898.10.2 所収
朝日新聞 明治三十一年十月二日
大塩平八郎 (十六) 猪俣生
天保四年ハ平八郎が其著述に於て最も収穫多き年なりき、彼ハ此歳に於て洗心洞箚記及び儒門空虚聚語の二書を編術せり、箚記は則ち平八郎の学術に大関係を有するものなるを以て、別に彼が学術を論ずるの際に於て之を詳述すべしと雖、今姑(しば)らく其著述に関する当時の事情を略述すべし、
抑々洗心洞箚記ハ彼が学術の本領たる太虚説を説明せるものにして、彼が畢生の心血ハ此書に灑(そゝ)ぎ尽されたりと云ふも決して不可なきなり、意ふに彼が多年の考慮、幾多の工夫ハ、茲に聖胎の分娩を促がし、而して其一旦豁然大道に洞徹するや、天始めて朗かに、地始めて濶く、精神発越、意気激昂、殆んど手の舞ひ足の蹈むを知らざること、恰も希臘のアーキメデスが比重法を発見し「余ハ発見せり、余ハ発見せり」と大呼して、浴中より躍り出で、赤【身果】々の儘、室中を狂奔して已まざりしが如きものありしならん、故に此書の成るや、夏七月、彼れハ旅装を整ひ飄然として道程を東に取り、先づ伊勢に至り太廟を拝して一本を其神殿に納め、更に進み、富嶽に登りて一本を其石室に納めたり、実に彼れハ所謂本諸身、徴諸庶民、考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑、百世以俟聖人而不惑、の信用を此書に寄せしなり、夫れ士君子の言を立て、書を著はすや、其後世必伝を期すべきハ固より論なし、然れども平八郎の若く、東海に聖人出づることあるも必ず此言を易(か)へじ、西海に聖人出づることあるも必ず此言を易へじ、南海北海に聖人出づることあるも必が此言を易へじとの気宇と抱負とを以て、書を著はしゝもの世上其れ幾人かある、男子学ばずんバ則ち已まん、苟も書を読み道を講ず、豈亦 此抱負と気概となかるべけんや、其説の如何は暫く論せずとするも、唯此神殿に納め石室に蔵するの一事、世上幾千万の儒者を凌轢して、万丈の光焔を吐きたるものと云ふべし、世の学なく識なく墨を惜まず字を惜まず、唯書せんが為めに書し、唯説かんが為めに説くの輩、亦以て平八郎に省るなかる可けんや、彼れが富嶽に登りしハ恰かも七月十七日なり、当時詩あり曰く