Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.12

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その57

猪俣為治

『朝日新聞』1898.12.9 所収


朝日新聞 明治三十一年十二月九日
大塩平八郎 (六十八) 猪俣生

  其十二 反覆者(続)

平八郎の党与に吉見九郎右衛門、河合郷左衛門の二人あり、共に平八郎の門人たりしを以て、平八郎の勧めに従ひ此回の挙に加盟せり、然れども共に性質臆病にして、時漸く近づき、事愈々迫るに及びて、沮喪躊躇の色を顕はせり、平八郎早くも之を看取して、両人を呼び大に之を叱責したるを以て、郷左衛門ハ遁逃して其身を隠し、九郎衛門ハ病を生じて床に臥せり、彼等共に子あり、九郎右衛門の子ハ英太郎と呼び、郷左衛門の子ハ八十次郎と呼ぶ、共に平八郎の塾に寄宿せり、

一日英太郎平八郎の命を受けて外出し、路己れの宅を過ぎるや、九郎右衛門之を呼び、語るに己の密訴すべきの意を以てし、且つ曰く、汝八十次郎と共に、勉めて証拠となるべきものを得て、逃れ来れ、余れ之に因て奉行所に密訴すべしと、則ち己ハ病床に在て一篇の訴状を認め、己の罪を免がれんが為めに、有らゆる誣謗(ふばう)平八郎の身上に逞うし、之を封じて上に「乍恐公儀御一大事之儀奉急訴候」と書し、以て英太郎の証拠を持し来るを待てり、

吾人史を読みリエンヂが火焔の中に立て羅馬市民の不信義を責め、コロンウエルが涙を揮ふて其親兵を斬るの処に至り、以為(おもへ)らくリエンヂの威望ありて信を市民に執る能はず、コロンウエルの智略ありて親兵の心を繋ぐ能はざりしハ何の故ぞと、今にして実に彼等の心の悲しむ可きを知るなり、夫れ平俗の人が英雄を崇拝するハ唯極めて其皮想を知るに止まりて、決して堂奥を窺ふたるに非ざるなり、故に一時ハ英雄の長広舌に鼓吹せられて其挙に与かるに至るも、英雄が極至の意見を発揮し、畢生の本領を実施せんとする時に及びてや、彼等ハ其素養足らざるが為に、理想既に尽き、勇気既に餒ゆるを以て、多くハ皆英雄に反きて却走し、遂に英雄をして孺子我事を破ると慨歎せしめて已む、是れ実に痛恨に堪へざる所たりと雖も、賢愚の相異なる、亦実に如何ともす可らざる所なり、且夫れ天下の善、過ちを改むるより善なるハなく、天下の悪、心を変じて裏切するより悪なるハなきに拘はらず、天下の最大悪事を行ふものが、常に口実を天下の最大善事に藉るに至りてハ、是れ最も痛恨に堪へざる所なりとす、

吉見九郎右衛門ハ病床にありて、其子の報知を待つち居たりしに、十八日夜四ツ頃に至りて、英八郎(英太郎)河合八十次郎と共に疾走して家に帰り、平八郎ハ明日両奉行を襲殺するの計画ありと告げ、且つ一枚の檄文を出して之を示して曰く、是れ以て証拠と為す可きなりと、因て九郎右衛門ハ曾て己が認め置ける訴状を彼等に附し、西町奉行伊賀守の許に至りて之を訴へしむ、是れ山城守の邸内にハ平八郎の党与のあるありて事の洩れんことを恐れてなり、英太郎八十次郎の両人ハ、直に伊賀守の邸に至りて、審かに其見聞せる所を述べ、且つ九郎右衛門の訴状と檄文を出せり、是れ十九日の朝五ツ頃なり、伊賀守之を聞き、直に山城守に報ぜり、山城守伊賀守の報を聞くや、其同盟の中瀬田済之助、小泉淵次郎の名あり、而して瀬田小泉ハ共に東組の与力にして、此夜山城守の邸に当直せるものなり、因て先づ彼等を捕へて之を鞠問(きくもん) せんと欲し、人をして二人を呼ばしむ、二人至れバ則ち室内に警戒の色あり、因て大事已に発覚したるを知り、遽に邸外に遁れんとせり、山城守の左右の諸士之を見て追窮急なり、二人刀を抜きて之を防ぎ、双方奮闘すること数刻、衆寡敵せずして小泉淵次郎ハ、諸士の為に乱刺されて死す、瀬田済之助其間を得て官邸の屋後に出て牆屏(しやうへい)を一跳して遁れ去れり、

茲に至りて平八郎の画策ハ、殆ど破れたるに近しと謂ふべし、


坂本鉉之助「咬菜秘記」その14
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