Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.15

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その58

猪俣為治

『朝日新聞』1898.12.10/11 所収


朝日新聞 明治三十一年十二月十日
大塩平八郎 (六十九) 猪俣生

  其十二 諌死と小伯夷

十九日の払曉、山城守の邸内に於て、小泉淵次郎の殺害せられたると同時に、平八郎の邸内に於て亦一箇の悲劇を生じたり、宇津木矩之丞の殺害せられたる事即ち是なり、彼ハ十八才の妙齢にして、此ハ二十才 *1 の壮士なり、彼ハ平八郎の挙に与みしたるの故を以て害せられ、此ハ其挙に与みせざるの故を以て殺さる、其志す所ハ即ち異なりと雖も、其悲しむべきや即ち一なり宇津木矩之丞ハ彦根藩の老職宇津木下総の弟也、武技に長じ又文学に秀で、兄下総と共に平八郎の学術を慕ひけるが、四年以前、僕友蔵を従へ大阪に来り、平八郎を師として暫く此に滞在せり、矩之丞、平八郎の塾に在りけるが、曾て西国九州に遊歴せんと欲し、其意を平八郎に述るや、平八郎其志を壮なりとし、別に臨みて名刀友成を餞(おく)れり、矩之丞乃ち一僕を従へ、中国鎮西に遊歴すること三年、今や桑梓彦根に帰らんと欲し、大阪に来りて途次平八郎の門を叩けり、時正に二月十七日の黄昏なり、

矩之丞平八郎の邸を訪ふや、衆之を聞き喜んで曰く、此際若し彼を得バ、是殆ど幾十人の同志を得るものに庶幾(ちか)し、願くハ彼をして此義挙に与からしめんと、平八郎も亦之を然りとし、其夜深更に至り、彼を別室に延(ひ)き、衆と共に之に告るに密 謀を以てして、其加盟を促がせり、矩之丞之を聴きて愕然、窃に以為らく、吾の来りて適々此事に会するハ是れ命なり、今之に与みすれバ固より死せざるを得ず、之に与せざるも亦必ず殺されん、若かず死諌して以て父祖の名を辱めざらんにハ、然れども吾に二尊の在すありて日夜閭(りよ)に倚りて児の帰るを待てり、若し告るに児が胸中を以てせずして(にはか)に死せバ、不孝焉(これ)より大なるハ莫し、此情を故園に通じ、然る後敢て師に諌争して、以て師弟の誼を全うせんのみと、乃ち徐ろに此事の或ハ非挙なるなからんかを論じ、且つ加盟の諾否ハ熟考の後明夜に至りて返答せんと告げて其座を退けり、矩之丞ハ翌十八日に至り、一書を草して僕友 蔵に託して郷里に赴かしめ、以て夜の来るを待てり、十八日の深更、衆皆密室に会するや、矩之丞進み入りて謂て曰く、昨ハ諸君頻に僕に勧むるに義挙に加盟す可きことを以てせり、然れども僕熟々之を考ふるに、事大に非なるものありて存す、蓋し先生の此挙たるや、固より上、奉行の無状を憤り、下、生民の窮餓を憫むに出でたるものにして、頗る其理あるに似たりと雖も、僕を以て之を見れバ、猶未だ尽さゞるものあるが如し、思ふに今日政府が官廩を開きて賑恤を為さゞるハ、顧みる所一に倉帑(さうど)貯蓄の充実如何に在り、又豪商輩の民を救恤せざるが如きハ固より是れ彼等の私財の事のみ、決して深く之を尤(とが)むべきに非ず、且や大阪の豪富ハ其数限りありて、窮民の数ハ之に幾百倍するを知らず、然るに窮民を救はんが為に市街を焼くが若きハ是れ却て災禍を甚しくするものなり、何ぞ是を以て事の理を得、策の宜しきを得たるものといふことを得んや、况んや此類の挙を企てゝ、成功したるもの古より未だ之あらず、多くハ皆半途にして■(わざはひ)直に其身に及ぶをや、先生の明にして且つ敏なる、豈此理を知らざらんや、而して今や必ず此挙に出でんとす、吾終に其何の意たるを解せず、切に願くハ初志を翻へして以て正道に復せられよ、僕敢て死を以て之を諌諍すと、辞気共に【厂萬】 し、

■の字  


朝日新聞 明治三十一年十二月十一日
大塩平八郎 (七十) 猪俣生

  其十二 諌死と小伯夷(続)

時に庄司義左衛門進みて曰く、足下の言亦一理なきに非ず、然れども足下未だ先生の微意を審かにせざるものあり、抑々此回の挙の若きハ、全く天下万民の為に百世の利福を計るものにして、固より一身一己の富貴利達を営むものに非ず、故に此一挙にして仮令失敗するも、若し此れに因て以て今後政を為すもの、其任の重きを知り、富者其責の軽からざるを知り、大に自ら反省する所ありて、権あるもの権を弄せず、富めるもの富を私せず、万民其生を安んじて、共に王道の慶に頼(よ)ることを得バ、吾等の願亦足れり、吾等の心事ハ則ち一意天下の為に利福を計るに在り、苟くも此目的にして達することを得バ、彼の利を失ひ、名を汚し、命を棄て、族を赤うするが如きハ、固より辞せざる所なり、足下命を惜まバ則ち止めよ、若し義に勇まバ何ぞ加盟を逡巡するやと、矩之丞曰く、僕無似と雖も亦幸に士人の家に生る、且つ教を先生に奉じて以て諸君の後に周旋せり、丈夫身を処するの大義の若きハ、固より之を知る、然れども今回の挙の若きハ、是れ所謂暴を以て暴に易ふるものにして、吾未だ其可なるを見ざるなり、之を奈何ぞ遽に諸君に加盟して、以て父祖の名を辱かしむるに忍びんやと、諤々弁じ去りて言未だ畢(をは)ら ざるに平八郎之を遮り止め、色を和げて曰く、余深く吾子の志を知る、故に今之を吾子に強ひざるなり、唯余の如きハ直前邁往、初心を一貫せんのみ、吾子其れ去りて速かに国に往けと、因て具さに彼を慰諭して座を退かしむ、時に衆皆曰く、先生何ぞ彼をして国に往かしむるや、機密或ハ此れより洩れん、唯■(すみやか)に之を刺して帰国に及ばざらしめよと、平八郎乃ち格之助をして、大井正一郎 を召さしめ、刀を授けて命ずるに、矩之丞を殺すべきことを以てす、正一郎塾舎に帰りて、矩之丞を求むれども在らず、察するに厠に入るものゝ如し因て同塾生安田図書に詢り、彼をして戸外に伏せしめて其遁路を防ぎ、刀を授けて矩之丞の出るを待つ、既にして厠を出るや、正一郎大声急呼して曰く、宇津木君命を先生に奉ぜよと、直に刀を抜きて之に迫る、矩之丞之を見て初より驚かずして曰く、是れ固より吾期する所なりと、言畢りて従容端坐して刄を受く、正一郎帰りて之を平八郎に報ず、平八郎忸怩(ぢくじ)として曰く、吾れ此人に対して深く徳に慙(はづ)るありと、哀悼すること之を久しうす、嗚呼周武の勇気を折(くぢ)きたるものハ、殷紂の兵卒の衆多なるに在らずして、眇たる伯夷叔斉の諌言に在りたりとすれバ、平八郎の此挙に於ける最大の敵は大炊頭に在らず、山城守に在らず、又伊賀守に在らずして、実に此宇津木矩之丞なりしなり、至誠の人を動かすや其れ此の如き乎、矩之丞の僕友蔵、途中大阪に変起りたるを聞て、惶々として大津駅に達するや、代官石原清左衛門の手に捕へられ、再び大阪に押送せらる、廿六日に至りて吟味の際、彼の懐中より其附託の一封書を出せり、

■の字

乞ふ吾人ハ読者と共に、不幸人倫の至変に遭ひて遂に一命を抛ちたる、彼れ矩之丞の遺書を観む、

読み畢(をは)りて読者果して如何の感かある、恰も秋夜猿声を聞くが如く、転(うた)た吾人をして再読に堪へざらしむ、


管理人註
*1 宇津木はこのとき29歳。


大塩平八郎叛乱紀事附録 宇都木敬次告訣手簡」(「事実文編」)
井上哲次郎「宇津木静区
宇津木静区の家郷に永訣を告げた書面
田中従吾軒「大塩平八郎の話
田中従吾軒「再び大塩平八郎に就て
原口令成「宇津木矩之丞臨終の実況
大塩平八郎関係年表


猪俣為治「大塩平八郎」目次その57その59

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ