Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.11.9訂正
2000.10.17

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その59

猪俣為治

『朝日新聞』1898.12.12 所収


朝日新聞 明治三十一年十二月十二日
大塩平八郎 (七十一) 猪俣生

  其十四 大破裂

天保八年二月十九日、嗚呼此日や一代の偉人大塩平八郎が、吊民の大義を挙げんと定めたる日なり、此日や当時の汚吏驕商に因りて詛(ちか)はれ、仁人義士に因りて祝され、恩怨相半して長く人の心胸に鏤刻せられたる日なり、短智浅見の幕吏ハ、平八郎の此挙の朝を祟(を)へずして破れたるを見て、此日に 因りて益々徳川政府の威力の盛大に至るべきを信じ、卓出高明の識者ハ、一与力の為に鼎の軽重を問はれたるを見て、此日に因りて幕府の命数の已に久しからざる可きを知れり、政を執る有司をして、悪政の下必ず一種の反抗あるを知らしめたるも亦此日なり、仁恵の外に委棄せられたる窮民をして、絶望の際自ら志士仁人の己れを救はんと企つるものあるを知らしめたるも亦此日なり、此日や実に活気なく、趣味なき、徳川三百年の歴史中に於て、轟々烈々たる一種の異様の事実を以て描かれたる頁なりと云はざる可らず、

平八郎及び其党与ハ皆年来の志望を此一挙に遂げんと喜び、世を徹して諸般の準備に従事し、早く夜明けよかし、早く両奉行の巡見の時来れよかしと待居たりしに、払曉寅牌、潮田 (瀬田)済之助、被髪徒跣、門内に走入り、疾声平八郎に告げて曰く、事既に洩れたり、何物の竪子ぞ此大事を破ると、因て山城守邸内の変状を述ぶ、平八郎之を聞て曰く、果して然らバ彼れ奉行等が、今日朝岡の宅に会集せざるハ勿論捕兵の此に襲来せんこと必然なり、 空しく坐して其制を受けんよりハ、寧ろ先んじて彼等を襲はんと、乃ち急に出陣の準備を為せり、此時や党与ハ漸次に集り来り、且つ曩に賑恤せる時に当りて、此日を以て平八郎の自宅に於て再び施与すべきことを告げたるを以て、数百の人民ハ既に門外に沓集(たふしふ)せり、是に於て彼等を後庭に誘ひ入れ説くに斬姦救民の挙を以てし、人毎に糧資兵仗を給せり、彼等之を聞き始めて其情を知り、胆力あるものハ之を喜び、怯懦なるものハ之を恐る、乃ち其喜ぶものハ之を励まし、其恐るゝものハ之を嚇し、与(とも)に後庭に止まりて号令の下るを待たしむ、斯くて卯の下刻に至るや、諸般の準備全く既に整 ひたり、是に於て平八郎、頭に金兜を戴き、身に火事装束を纏ひ、紅麾を執り、出でゝ後庭の胡床に倚る、他の同志も亦皆着込を着け、武具を軽装して出で来れり、因て平八郎大声号令を伝へて曰く、今回の挙や其志す所ハ姦官汚吏を殺戮して以て天誅を行ひ、驕商奸賈を膺懲して以て米穀を散布し、以て此滔々たる飢餓の窮民を救ふに在り、決して変乱を煽るに非ず、決して侵劫を行ふに非ず、必らず良民を掩殺する勿れ、必ず貨財を盗攘する勿れ、唯義是れ求めて、以て其目的を達せよ、 若し之に背くてものハ軍令に照して之を罰せんと、

乃ち左右に命じて轟然一声号砲を発せしむ、是れ遠近の党与及び大阪近郷の民に事の起らんとするを知らしめんが為なり、而して先づを自邸に放ち、屏墻(へいしやう)を破壊し、一同共に大道に出で、救民の二字を大書したる旗、天照皇太神宮八幡大菩薩湯 武両聖王と列書したる大旗、二ツ引に桐の徽号を印せる差物等数旒を靡かし、木製の大筒4門、及び車に載せ、銃砲を持するもの、火箭を持するもの、槍を持するもの等其人数に合わせて三百人、決然として打出せり、時正に辰牌、


森鴎外「大塩平八郎」その5「門出」
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