Я[大塩の乱 資料館]Я
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2000.10.28
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その68
猪俣為治
『朝日新聞』1898.12.21 所収
朝日新聞 明治三十一年十二月廿一日
大塩平八郎 (八十) 猪俣生
其十四 大破裂(続)
平八郎及び格之助に対する宣告書ハ左の如し、
大阪町奉行跡部山城守与力
大塩格之助養父 大塩平八郎
大塩格之助
右之者共儀、平八郎ハ表に謹厳の行状を飾り、文武忠孝之道を講じながら、内実養子格之助へ可嫁合約束にて養置候摂津般若寺村忠兵衛娘ミ子と及奸通、殊に諸人之信用に随い慢心を生じ、軽き身分を不顧、御政道を批判致し、其上浅墓なる儀に候へども不容易謀計を企、師命と称し愚昧の門弟を威伏為致、追て米価高直諸民難渋之折を窺ひ仁慈を行候存立に託し、又ハ同組与力同心等の気合を量り、品々奸舌を以て不平の志を募らし、夫々一味連判に引入、猶人気を為靡候ため所持の書籍、其余摂州兵庫西出長太
夫等申掠め出金為致買調候書籍をも売払、一己の慈善に申成し、右代金難渋人へ施与し、或ハ反賊の名聞を厭ひ、諸民惑乱可為致ため、無思慮大言を綴り不軽文言をも認載候檄文村村へ為捨置、剰(あまつさ)へ名家の末孫抔申触、救民之計議と偽唱、計策を以て奉行を討取、大阪御城を始め、御役所并市中をも焼払豪家の金銭を窮民へ分与へ、一旦同国甲山へ楯篭べき旨申合せ、右企露顕の期に至り逆意に不随門弟宇津木矩之丞を為及殺害、一味加担之者共一同兵具を帯び鎗長刀等携へ恐多文字書記候旗押立、百姓共を申威し、多人数徒党を結び、大筒火矢等打払、所々放火及乱妨、捕方役人へ敵対致し、格之助も右体の企申合、愚民を誑惑(きやうわく)致候、平八郎倶々及反賊之所業、捕方人数に被打立、銘銘迯去候後、油掛町五郎兵衛申威し、同人方に忍罷在候始末、不恐公儀仕形重々不届至極に付、両人共塩詰之死体引廻しの上磔、
嗚呼是れ平八郎の天誅の檄文に対する幕吏の返答なり、平八郎ハ檄文に於て幕吏を責めて「禄盗」と云へバ、幕吏ハ宣告文に於て平八郎を【此/言】(そし)りて「奸通」と云ひ、平八郎ハ檄文に於て彼等を罵りて「道徳仁義をも存せず拙き身分」と云へバ、幕吏ハ宣告文に於て之に答へて「軽き身分」と云ひ、平八郎ハ「甚以て厚かましき不届の至」と云へバ幕吏も亦「不恐公儀仕形重々不届至極」と云ひ、両々相対峙して機鋒相当るを見る、既に林子平ハ海国策を講じて「不届至極」と云る罪名の下に罰せられたり、
復た何ぞ平八郎の此挙の不届至極なるを怪しまんや、而して平八郎ハ果して幕吏の云ふが如く、奸通を為す若き不徳の人物なりしか、曰く否、是れ幕吏が平八郎を死後に誣辱せんが為に虚構したる事実なり、前大阪町奉行矢部駿河守ハ此点に関して論じて曰く、
平八郎叛逆人といへども、余が案にてハ叛逆とハ不存候(中略)彼実に叛逆を謀らんにハ、いかで大阪の御城へこもらざることあるべき、(大阪御手薄の事門番の事等年来大塩の苦心の事也)、然るに御城へハ不入して、棒火矢を以て焼払ひたるハ何ぞや、(中略)人過(あやまち)あるとき再三反覆これを諌むるハ忠と云ふべし、再三忠告せる上にも其人不用とて、是を憤りて座にあり合へる火鉢などを其人の面へ投げバ、不敬の至極なり、始めにハ其人を憂ふる余り忠告し、後にハ其面体へ疵を付バ、安んぞ其人を憂ふるにあらんや、平八郎も始ハ忠告すれ共用ひられざるを憤り、叛逆に均しき逆乱を企てしハ此類なり、余勘定奉行なりしとき此議を主張し、何卒叛逆の科を除き大不敬の罪に処したきものと建議せしが其議用ひられざるのみならず、某も叛逆人に身を持つやうに当路にてハそしりたりとぞ、平八郎の罪状を数へたる中に、子の婦にせんとて養ひたる女へ姦通の事あり、某ハ平八郎の事よく知りたるが、其女ハ近郷農民の子なり、平八郎ハ身を持たる者なり、実に子に配せんとならバ身を持たる者より約すべきなり、是ハ全く下女に置きたりしを妾になしたるにて、何の仔細もなき事なり、其上仮令其事聊か疑ふべき事あるにもせよ、平八郎を拷問し其罪に伏したるにもあらず、罪状を責むることもさる事なれども、其人既に自ら焚死黒焼となりたる平八郎に、如此罪状を与ふるハ公裁とハ云ひ難し、人心の霊、愚夫愚婦までも今に平八郎樣と称するハ、陰に其徳を仰ぐにあらずや、されバ余其の事を仕置せんにハ、却て平八郎年来の忠憤ハさる事ながら、憤激のあまり其跡叛逆に等しきことを仕出したるハ上をも不畏大不敬と云へる事にて裁判せバ、平八郎死せりと雖も甘んじて其罪を受け、又大阪の人心をも圧倒すべし、
斯くて平八郎の子弓太郎ハ永牢に処せられ、妾ユウハ遠島に処せられ、ミ子ハ獄中にて死せり、其他磔刑に処せられたるもの、死罪に処せられたるもの、永牢のもの、遠島のもの、押込のもの、逼塞のもの、追放のもの、科料のもの、叱付のもの等、男女合せて七十余人に及べり *1、密訴者中九郎右衛門ハ其罪を赦され、英太郎 八十次郎ハ白銀五十枚の賞を得、助次郎ハ其罪を赦さる可かりしを預け中自殺せり、平八郎の子弓太郎も齢七才にして病死せり、
平八郎の党与の判決あると同時に、幕府ハ大阪城代以下のものに対して大に論功行賞の挙あり、然れども跡部及び堀の両奉行ハ独り其労を録せられざりき、
斯の如くにして丁酉の乱ハ終れり、斯の如くにして偉人平八郎の伝記ハ終れり、
(完結)
管理人註
*1ユウ(ゆう)はミ子(みね)同様、牢死。
相蘇一弘「大塩の乱関係者一覧とその考察」 (『大阪市立博物館研究紀要 第26冊』1994 所収)では、処罰者806人。
猪俣為治「大塩平八郎」その53「檄文」
森鴎外「大塩平八郎」その17「処罰者一覧」
「大塩平八郎関係年表」
猪俣為治「大塩平八郎」目次/その67
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