Я[大塩の乱 資料館]Я
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2000.10.28

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その68

猪俣為治

『朝日新聞』1898.12.21 所収


朝日新聞 明治三十一年十二月廿一日
大塩平八郎 (八十) 猪俣生

  其十四 大破裂(続)

平八郎及び格之助に対する宣告書ハ左の如し、 嗚呼是れ平八郎の天誅の檄文に対する幕吏の返答なり平八郎ハ檄文に於て幕吏を責めて「禄盗」と云へバ、幕吏ハ宣告文に於て平八郎を【此/言】(そし)りて「奸通」と云ひ、平八郎ハ檄文に於て彼等を罵りて「道徳仁義をも存せず拙き身分」と云へバ、幕吏ハ宣告文に於て之に答へて「軽き身分」と云ひ、平八郎ハ「甚以て厚かましき不届の至」と云へバ幕吏も亦「不恐公儀仕形重々不届至極」と云ひ、両々相対峙して機鋒相当るを見る、既に林子平ハ海国策を講じて「不届至極」と云る罪名の下に罰せられたり、

復た何ぞ平八郎の此挙の不届至極なるを怪しまんや、而して平八郎ハ果して幕吏の云ふが如く、奸通を為す若き不徳の人物なりしか、曰く否、是れ幕吏が平八郎を死後に誣辱せんが為に虚構したる事実なり、前大阪町奉行矢部駿河守ハ此点に関して論じて曰く、

斯くて平八郎の子弓太郎ハ永牢に処せられ、妾ユウハ遠島に処せられ、ミ子ハ獄中にて死せり、其他磔刑に処せられたるもの、死罪に処せられたるもの、永牢のもの、遠島のもの、押込のもの、逼塞のもの、追放のもの、科料のもの、叱付のもの等、男女合せて七十余人に及べり *1、密訴者中九郎右衛門ハ其罪を赦され、英太郎 八十次郎ハ白銀五十枚の賞を得、助次郎ハ其罪を赦さる可かりしを預け中自殺せり、平八郎の子弓太郎も齢七才にして病死せり、

平八郎の党与の判決あると同時に、幕府ハ大阪城代以下のものに対して大に論功行賞の挙あり、然れども跡部及び堀の両奉行ハ独り其労を録せられざりき、

斯の如くにして丁酉の乱ハ終れり、斯の如くにして偉人平八郎の伝記ハ終れり、

  (完結)


管理人註
*1ユウ(ゆう)はミ子(みね)同様、牢死。
 相蘇一弘「大塩の乱関係者一覧とその考察」 (『大阪市立博物館研究紀要 第26冊』1994 所収)では、処罰者806人。


猪俣為治「大塩平八郎」その53「檄文」
森鴎外「大塩平八郎」その17「処罰者一覧」
大塩平八郎関係年表


猪俣為治「大塩平八郎」目次その67

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