Я[大塩の乱 資料館]Я
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2000.10.27

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その67

猪俣為治

『朝日新聞』1898.12.20 所収


朝日新聞 明治三十一年十二月二十日
大塩平八郎 (七十九) 猪俣生

  其十四 大破裂(続)

平八郎曾て妾二人を蓄へたり *1、一をユウと呼ぶ、元北の新地大黒屋和市の娘にして、二十年前忠兵衛の妹分として来りて妾と為りたるものなり、然るに文政十年三月、平八郎弓削新左衛門に迫りて自殺せしめたる際、故ありて之を剃髪せしめ、忠兵衛の家に寄食せしめ、後忠兵衛の娘ミ子と呼ぶものを納れて妾と為せり、然るに七年以前に於て、宮脇志摩の娘イクと呼べる二才の稚児を養女とせしを以て、之を養育せしめんが為に再びユウを家に召還したり、天保七年に至り、ミ子男子を挙ぐ、之を弓太郎と名(なづ)く、平八郎事を挙ぐるの日迫るや、彼等の家に在るを便ならずと為し、本年二月七日に於て、ユウ、ミ子、イク及び弓太郎等に一人の家婢リツを従がはしめ、之を忠兵衛の家に託せり、忠兵衛尚発漏せんことを恐れ、十五日を以て彼等を伴ひ、伊丹の紙屋幸五郎の許に到り、己の一族なりと称して暫時の寄食を依頼せり、

十九日の事敗るゝや、平八郎死後に汚辱を遺さゞらんと欲し、忠兵衛を船より上陸せしめ、彼等を勧めて自殺せしむべきことを託す、忠兵衛大和屋と共に同夜深更幸五郎の宅に到り、ユウ、ミ子両人に告るに事情を以てすれバ、両人大に悲歎して曰く、事既に此の如し、妾等固より敢て命を惜まず、唯此二箇の童男女をして、共に此惨に罹らしむるに忍びず、願くハ彼等寄託の図を為して、而して後命に従はんと忠兵衛も亦之を強(しゐ)ることを得ず、因りて二十日を以て作兵衛と共に彼等を率ゐ、能勢宿より丹波路を経て京都に出で、伊勢参宮の道者なりと称して旅店に滞在し、是より将に美濃に到らんとするの際、遂に京都町奉行梶野土佐守の配下の探知する所となりて皆縛に就き、大阪に送還せられたり、

平八郎の党与中、其重なるものゝ踪跡を記せバ、安田図書ハ淡路町の散乱後、槍を本町辺の下水に投じて走るの際、同心渡辺弥五郎等の為に追窮せられ、遂に其縛する所となり、吹田村の宮脇志摩ハ、二月二十日捕吏の其家に向ふや、屠腹の態を装ふて之を欺き、隙を窺ひ逃脱して猪名川に到りて自殺し、瀬田済之助ハ河内国志貴山の麓恩地越に至りて路傍の松樹に縊死し、渡辺良左衛門ハ銃砲の為に左足を挫かれ、跛行して河内国志貴郡の田井中村に到りて自殺し、庄司儀左衛門ハ奈良の旅店に於て奉行の為に縛せられ、近藤梶五郎ハ与力組屋敷の燼灰の中に於て屠腹し、竹上万次郎 *2 ハ河辺郡の中山寺の旅店に於て縛せられ、大井正一郎ハ京都所司代の手にて捕へられたり、高野山に逃れ去りしも蔵匿を拒絶せられて自訴したるものハ、高橋九右衛門 茨田軍次及び其弟斎治なり、大阪に於て捕はれ大に現政を罵りて有司を驚かしめたるものハ、松本林太夫と云へる当年十三才の青年なり、此外白井孝右衛門、西村新三郎、上田幸三郎、梶岡源右衛門、同伝七、志村周五郎、堀井儀三郎、阿部長助、曾我岩蔵、市田次郎兵衛、額田善右衛門、郷井磯四郎、横山文哉等悉く捕へられたるを以て、両奉行ハ之を審問して後幕府に禀申せり、幕府ハ之を評定所に移して審判せしむるに決し、其党与の重なるものを江戸に押送す可きことを命ぜり、因て六月二十九日に於て大西与五郎、吉見五郎右衛門、竹上万次郎、安田図書、大井正一郎、美吉屋五郎兵衛、及び妻ツ子の七人を江戸の評定所に護送せり、評定所ハ則ち間部下総守、井上河内守、筒井伊賀守、大草能登守、内藤隼人正、池田将監等を以て組織し、七月七日より審問を始めたり、又別に評定所留役山本新十郎、支配勘定白石十太夫等を大阪に遣はし、自余の党与及び連累者を審問せしめたり、当時平八郎等の刑を擬するに、由比正雪の刑を以てし、三族を死刑に処せんと議するものあり、又平八郎の罪ハ叛逆に非ず、且つ刑を三族に及ぼすハ理の宜しきものに非ずと論ずる者ありしが、天保九年八月二十一日を以て、江戸に在るものハ評定所に於て判決を達し、大阪に在るものハ九月十八日を以て大阪町奉行に於て之を達せり、平八郎の党与ハ総て五百人に達せしも、一に寛典に処し、且つ父子兄弟と雖も苟くも罪に関せざるものハ、死罪に処せざるの方針を取れり


管理人註
*1 ミ子(みね)は、格之助の妻、というのが有力な説。
「北の新地」は曾根崎新地のこと、堂島新地の北に位置することから「北の新地」といわれる。「ユウ」の前名は「ひろ」。
*2 竹上万太郎


森鴎外「大塩平八郎」 その17
「浮世の有様 巻之六 大塩の乱」 その12「松本林太夫」
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