Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.18訂正
2000.7.16

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その6

猪俣為治

『朝日新聞』1898.9.22/23 所収


朝日新聞 明治三十一年九月廿二日
大塩平八郎 (七) 猪俣生

  其三 治績(続)

文政の末に当りて、京都八阪下に肥前唐津の浪人水野軍記と呼ぶものあり、彼陽に稲荷神を奉じて陰に切支丹宗に帰依し、或ハ吉凶を判し、或ハ疾病を祈り、其他種々の妖術を行ひ愚民を誑かして到る処に金銭を攫取せり、而して其信徒としてハ、男子に在りてハ摂州曾根崎村の桂蔵、大阪堂島大工町の顕蔵*1、同松山町の平蔵、又女子に在りてハ京都阪上町の陰陽師豊田みつぎ、摂州西成郡川崎村のさの、大阪天満龍田町のきぬ等先づ其術を学べり、

奇績の時代ハ已に過ぎたり、今日に於て古昔の神秘と妖怪を説くハ、少しく痴人の夢を説くに類するあり、然れども吾人ハ此事に関してハ、事実の真偽を定むるの判断者たらんよりも、寧ろ其当時の伝説を紹介するの記録者たらんと欲す、読者亦其心して可なり、

伝ふる所に拠れバ豊田みつぎハ陰陽師の家に生れ、粗(ほゞ)其術に通じ、人の為に屡々(しばしば)加持祈祷を為せしが、常に人を驚すの奇術を学ばんことを願へり、然るに今や水野軍記の秘法に通ずるを聞き、喜び往て其の法を問ふ、軍記曰く余に神術あり、敢て秘せず、たゝ其れ必らず他言する勿れ、言畢りて忽ち見る、夜陰模糊の間、一男一女宛然手を携へて途上に立てり、之を諦視すれバ何ぞ図らん男子ハ則ちみつぎが日夜念頭を離れざる所の情夫某ならんとハ、初めみつぎ甞て祇園新地の舞妓(ぶぎ)と為り、小みつと呼びしが、或人の落籍する所となりて其妻となれり、然に其人更に他の女と狎れ、相携へて遁逃せり、故を以てみつぎ深く之を含み、機あらバ一たび怨を雪がんと思ひ居たり、水野軍記曾て此事を知れるを以て、故らに此光景を顕はし、以てみつぎを激せしなり、みつぎ之を観るや愕然として驚き、深く其妙術に感じ、遂に教を受くるに至れり、抑々此法たるや浴水登山等の修行を為して心胆を練り、而して後吉凶の判断、疾病の加持金銀の集徠法等の印文を受くるものにして、みつぎの此法を授かるや、新たに家宅を構へて専ら世人を誘惑せり、大阪天満のきぬ之を聞き、其門に投じて教を受け、爾来此両人ハ門人を集めて伝授を事とし、金銭衣服を得れバ師恩に報ずると称して其師軍記に分配せしが、後みつぎ軍記と同居し、彼病死するに及びて其後を継承し、帰依者群集、妖毒京阪の間に蔓延せり、

時に大阪天満六丁目に大黒屋と呼べる商家あり、一夜盗あり、其家の穴蔵に忍び入る、家人之を覚知して其逃路を塞ぎ、急ぎ之を町奉行に訴ふ、平八郎之に赴き部下に令して之を捕縛し、熟々其穿【穴/兪】(せんゆ)の状を検して思らく、斯る堅牢なる窖中(こくちう)に忍入るもの、決して尋常の盗に非ず、是れ大賊巨盗の業に慣れたるものに非ざれバ、必ず妖法忍術に長ずるの徒ならんと、因りて拷問数日に及べバ、賊痛苦に堪えず、遂に豊田みつぎの門徒たることを白状せり、平八郎因りて之れを山城守に訴へ、京都の奉行に通牒して豊田みつぎを捕縛せんことを求む然れども京都の官吏等其奇術に中てられんことを恐れ、覆牒して曰く、豊田みつぎハ純正なる神巫にして決して良民を蠱惑するものに非ずと、平八郎之を見て怒りて曰く、然らバ京都の有司も既に妖婆の為に魅せらるゝに至りしなり、是れ当に余の一臂を労すべきの時なり、


管理人註
*1 藤田顕蔵のことか。


朝日新聞 明治三十一年九月廿三日
大塩平八郎 (八) 猪俣生

  其三 治績(続)

是に於て平八郎ハ、京都に通知するに当方に於て妖婆を捕縛すべきを以てし、自ら部下を率ゐ潜行して京都に至り、他のものを各所に陰伏せしめ、己れ独り淡州稲田の家臣真鍋某なりと詐称し、眼病に託してみつぎの家に赴き、且つ其家に寄寓して以て其動静を窺へり、みつぎ之を疑はずして只管其門に入らんことを勧む、居ること数日にして平八郎みつぎが為す所の正教に非ざることを認め、且つ党与の姓名居所を探知し、予め部下のものに通知して捕縛の準備を為せり、一日平八郎みつぎの独居を窺ひて其不意に出で、御諚の一声と共に驀地之を蹴倒し、隠す所の縄を出して之を捕縛し、且つ号笛を鳴らして部下を招集し、直ちに四方に部署しして党与を捕へしむ、此際縛に就くもの二十人の上に出づ、平八郎ハ悉く之を大阪に押送せしめたり、斯くて吟味所に於て一同を■■(?)するに、みつぎ独り抗弁論争し、鞭朴交下すれども首服せず、最後に至りて平八郎難詰弁折余力を遺さゝるの末、遂に身を躍らして階を下り、扇を以てみつぎの右眼を撞く、之が為にみつぎ大に沮喪し、遂に罪に服せり、是れ実に文政十年四月なり、是に於て高井山城守此事を幕府に上申し、一面にハ京都に通報して更に連類を捜索せしめ、他の一面にハ猶彼等を審議し罪案漸く定るやみつぎ以下男女五人を、大阪市中引廻の上遂に高原の刑場に於て磔殺に処し其一族五十六人に永牢を命ぜり、而して魁首水野軍記の墓を発(あば)きたれども、其屍既に朽腐したるを以て戮を加へずして止めり、みつぎの刑に臨むや、神色自若槍を肋膈に受くる五本に及ぶも猶ほ屈せず、頻に平八郎を罵詈して其声四方に徹し、聞くものをして毛骨を聳動せしめたりと云ふ、

橋本宗吾 *1と云へる蘭学者も亦此獄に連及し、其糺問の際、真の天主教ハ邪法に非ずと抗弁したるが為に、同じく死刑に処せられたり、是れ実に文政十二年十二月廿日なり、

此月幕府ハ令して曰く、

是に於て京阪の妖教全く其跡を斂(をさ)むるに至れり、平八郎ハ此時の賞として御譜代を許され、白銀十枚を賜はりたり、


管理人註
*1 橋本宗吉(天保7年歿) のことか。橋本宗吉ではなく、その弟子の藤田顕蔵が磔刑になっている。


井上哲次郎「大塩中斎」その3
吉野作造「大塩平八郎の切支丹検挙事件に関する文献

大塩平八郎関係年表


猪俣為治「大塩平八郎」目次その5その7

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