Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.12.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『日本倫理彙編 巻之3』(抄)
その4

井上哲次郎(1856-1944)・ 蟹江義丸(1872-1904)共編

育成会  1901

◇禁転載◇

陽明学派の部 下 序説  (4)

管理人註
  

天保八年二月十九日中斎兵を挙ぐ。其徒数百人 先づ豪商輩の家屋を焚燬 し、倉庫を破壊し、金穀を四散せり。既にして山城守の兵と戦ひしも利あ らず。黄昏に及ぶ比に余ます所僅に八十余人のみ。乃ち其徒を解散して自 らも其跡を暗ませり。此日火勢熾んに引いて 翌二十日に至りて益々猛烈 となり、大阪市の四分の一以上を焼失せり。是れより警戒殊に厳にして 中斎の徒を探偵すること急なり。是に於て 中斎の徒にして或は縛に就く もの 或は自殺するもの、或は自首するもの、前後数十人に及べり。然れ ども 唯々中斎及び格之助の踪跡未だ分明ならざるを以て、人心尚ほ恟々 たり、越えて一ケ月を経て、即ち三月の下旬に至り、中斎匿れて大阪の一 商人の家にあること露はる。二十六日の黎明、吏卒数十人来りて中斎を捕 へんとす。中斎吏卒の来たるを知り、格之助と共に火を放ちて焚死せりと いふ、時に中斎年四十有四。 中斎の門人は多くは与力なり。然れども又他所より遊学に来たれるものも 亦之れなしとせず。門人の数は一時に四五十人を下らず。若し前後を合す れば総数千人の上に出づべし。当時最も卓絶せしものは宇津木矩之丞にし て、洗心洞の塾頭たり。中斎は交道広からざりしかど近藤重蔵とは、意気 相投合するものあり。中斎と重蔵、何れも非常の人物なるを以て、其相遇 ふや東峰西嶽、相対立するの慨ありしや疑なし。然れども中斎が最も尊重 せし知己は頼山陽なり。山陽は 本と文人にして経学あるものにあらず。 中斎が之れと相交はること甚だ奇なるが如しと雖も、山陽は中斎の陽明に 類似するものあるを認容し、彼れを小陽明と称し、中斎は又 山陽を以て 陽明の文章と功業とに心服せるものとせり。其肝胆相照すべき共通の点を 有せしこと 復た疑を容れざるなり。


井上哲次郎
「大塩中斎」
その10




熾(さか)ん







恟々
(きょうきょう)







井上哲次郎
「大塩中斎」
その13


『日本倫理彙編 巻之3』(抄)目次/その3/その5

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