「大塩の乱関係論文集」目次
大鐙閣 1920
◇禁転載◇
文政四年辛巳先生二十九歳 | |
近藤重蔵免 黜セラル。 |
是年春三月弓奉行近藤重蔵勤方不相応ノ故ヲ以テ免黜セラレ普請入トナル、是ヨリ先キ近藤重蔵第宅ヲ築キ地楼ヲ起ス頗ル倨傲ノ風アリ。 先生其ノ或ハ奇禍ノ乗センコトヲ慮リ屡々之ニ忠告スル所アリ、重蔵聴カス、 又千種大納言ノ女ヲ娶ル、時人之ヲ憚ル。 是ニ至テ免黜セラレ普請入トナツテ帰東ス。 不遇ノ老雄又遂ニ此ノ地ニ志ヲ得スシテ去ルヲ送レハ先生ノ意悵然トシテ傷マサルヲ得サルモノアル可シ。丈夫非無涙、不灑別離間、伏剣対樽酒、耻為遊子顔ノ詩情真ニ両雄別離ノ状ヲ説尽ス、 按スルニ先生ハ交道広キ人ニ非ス、特ニ当時職司尚卑ク、而モ衿持自ラ高ク、峻厳苟クモ人ニ許サス、実ハ許スニ足ルモノ少ナキナリ、 玉造組与力阪本鉉之助ノ如キ当時ノ人物ナリ、 而シテ此ノ年始テ相交ハル。 |
先生と坂本 鉉之助ノ交 際。 |
咬菜秘記云 貞が大塩平八郎識面の始は文政四年辛巳年の四月頃、同組柴田勘兵衛在勤中にて平八郎は此勘兵衛の槍術門人にて免許の弟子也。 夫故勘兵衛方へは折々参居候、其折節貞も行合せ始て識る人になり、同席にて近日勘兵衛同道にて平八郎方へ可参筈に約束有之候。 是は勘兵衛存念に貞が少々学問にも志し候事あり、善き朋友にも可有之と引合候事にて、其後平八郎方へ同道ありて種々の物語承り、其後引続て貞一度一人罷越物語承り、書物などは何なりとも貸呉候様に申に付武備志を十巻許りづゝ借り候て一覧申候。 其後染々出合も不致、追々盛に被用、役用も繁多の様子にて面会も態と致遠慮居、其後八年平八郎へ本間重左衛門本多為助も刀剣望にて致同道一覧申候、 其節申聞候は貞に八ケ年前初て識る人に相成候趣申聞貞は年月等忘却候得共、あの方記憶人にて能く覚居候事と感心申候。以後は一年の内三両度も面会の事も有之、又は絶て面会不致年も有之候、
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先生好ンデ 政治ヲ論評 ス。 |
人の噂にては殊之外短慮暴怒も有しやうに申候へども、貞などが接眉の容体にては人の申様にも見請不申、至極礼節等は正しく万端の話も至極面白く其度に益を得ること多く、文武とも貞等より遥に優りし人と思ひし、歳は貞より二つ劣り候、 如何様妄に政道を是非する僻は有之候へ共、貞等が身には至極益ありと存居候云々。 是年十二月大久保出雲守教孝京橋組城番トナル
年表参考
清国宣宗帝立年号道光(新撰)伊能忠敬実測図成る |
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