人其ノ何ノ故タルヲ知ラス、浮説紛々タリ。

按スルニ初メ先生ノ猾吏糺察ノ命ヲ受クルヤ、禍福利害ヲ度外ニ置キ潜図密策経営惨憺タルモノアリ、先生妾ゆうハ賢婦人ナリ、

先生ノ此ノ殉職ノ意ヲ察スルヤ、君辱ラルレハ臣死スルノ遣意ニ感シ、先生既ニ死ヲ決シテ任ニ赴ク、妾巾幗ト雖モ如何ンソ褥ニ安ンジテ内顧ノ憂ヲ遺サント、

是ニ至テ剃髪ス。

山陽独リ之ヲ知ル、
曰ク子起ノ始メ密命ヲ受クルヤ、自ラ度ル事済ハ国ニ補ヒ済ラスンハ家ヲ破ラント、家ニ一妾アリ之ヲ出シテ累スル所ナカラシメ、然シテ後運籌決策指顧親信、発摘意外ニ出テ、其封豕長蛇ヲ為ス者ヲ斃スト、

世人殊ニ知ラス或ハ云フ、

妾ゆう甞テ所親ノ冤苦ニ罹レルヲ患ヘ、平八郎ニ訴ヘテ其厄ヲ釈ク、其人恩ヲ謝セント欲スレトモ平八郎ノ一物ヲモ収メサルヲ以テゆうニ玳瑁ノ櫛ヲ贈リ其営救ニ荅フ、他日平八郎之ヲ聞テ平日ノ禁戒ニ背ケルヲ怒リ、直ニゆうヲ逐フ、ゆう涕泣シテ其罪ヲ謝シタルヲ以テ僅ニ譴怒ヲ宥シ、髪ヲ剃テ其罸ヲ示ス聞クモノイヨイヨ其潔白ヲ敬憚ス。ト（大塩平八郎伝其他中斎事蹟、洗心洞余瀝皆云フ）

事実ハ皆非也、然モ此等ノ説亦一時俗間ヲ糊塗スルニ 益アリシモ知ルベカラス、只此ノ賢婦人ヲ誣フルノ甚タシキヲ憾ム耳。

浪華騒擾記云　当八ケ年以前播州百姓乱有之、右の頭取召捕に相成兼候に付同役其外懇意の者集会の節いろいろ物語り、頭取召捕余り及延引候由申候得ば、其席に平八郎も居候処、

いや頭取の急に召捕に不相成も一入御為 に宜しかるべし、
一体太平打続候故天下一統奢侈増長、役人共奸曲の所行のみいたし、最早天道にも御用捨なき筈に候得ば七八ケ年の内には必定大凶 作到来、世上難義可仕候、

されば只今の内より御手当有之候様致度其仕方は斯様々々と致し、万一凶作の備を致候はゞ間に合可申候、

左も無之候はゞ摂河泉播の民皆飢餓に及び必然と難渋差見候間、此事精々工風の上度々上疏致候得共寸分の御取用ひ無之、是即ち役人共己が身上のみ肥し民の難苦を不顧故に候、されば数年の内大凶作到来万民飢餓に及候はゞ不得己候間、天道に代り諸人を救ひ奸曲の役人共を見せつけべきものを

と、するどき眼にてにらみつけ候様子今も猶目に見え候様覚え候云々。

是年六月十六日近藤重蔵病テ幽閉中ニ没ス大溝邑瑞雲院山内ニ葬ル。