Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.5.25

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『事 々 録』 (抄)

その43

三田村鳶魚校訂

 『未刊随筆百種 第6』米山堂 1927 収録

◇禁転載◇


天保八丁酉年

摂州一揆、

○七月三日、摂州能勢郡栗栖川之西、木根の宮に籠り、一揆発り、凡五百人計り、同四月五日、御代官根本善左衛門支配所故に其手代共、大坂町奉行与力同心と共に彼ノ地に至り、其内之百姓三百人計をば教喩に及ぶ、乱妨不得止事同心せし者多ければ、終に帰服なし、彼等を召連レ、木根宮の山路壱人立の細小路より攻登る故に、其首領の作名なせし伊達安芸と呼べる者、叶はすして辺りの竹林へ迯入るを、乱玉に打殺す、

蒲蔵人と名のれる者は其身冠者範頼の末流也とて黒縮緬の一重衣に形夫きく笹龍胆の絞を染たるを著せし者、是も敵しがたく木根の宮の中へ取籠り、鉄炮を己か腹にあてゝ自焼死す、都て是等は各多田浪人と呼はれたる此村の郷士にて、往昔より唱来る旧農士の末にて、大庄屋野間蔵人か事也と言、

後に聞く大坂西横堀斎藤町篠崎長左衛門借家山田屋大助は家業薬種屋也、此者も其首領に加はりしと言、京町堀壱丁目手跡の師今井と呼候者も同類にて、両人とも六月末より出奔、首領五人の内也とぞ、

□に玉造の同心本橋岩次郎は彼ノ山田屋大助か甥にて、京師にある大助か妹急病也と偽り、岩次郎を同道して京へは行かず、木根の宮近所へつれ行、一揆に加はるべきをいふ、岩次郎は去ル二月十九日大坂乱妨の時も町奉行の加勢に出たる者にて、中\/悪徒にかたはるべき心底ならざれば、よきに挨拶してひそかに大坂の自宅へ迯帰りて、此事を口外せば伯父の大罪と訴ふるを思ひて、家内にももらさず秘しおきしが、今度一揆発りて、こと\゛/く亡びし、中に大助が下人波助といふ者の口よりして、岩次郎事も大助にさそわれ、一度は其党に入しと聞へければ、早々玉造へ岩次郎を召捕にむかひ、ついに奉行所に糺されけれども、言訳くらく、其党をのがれたりとて、天下の変乱を秘したる罪遁るヽ事なくして、窮居に及びけるとぞ、

予ははや大坂の勤はてヽ戻りしかば、其後の始末を知らす、
此時御代官根本善右衛門取扱方よろしくや、
天保九ニ到リ、江府へ被召御勘定吟味役ニ転役、


此秋は関東御大礼にて、東海道は公卿諸侯の往来しげく、番頭より伺の上にて中仙置を旅立して江戸へもどりけるが、大田大井の駅にて大風雨にさへぎられ、ちくま川なんど丸太をいかだに組て駕をのせをしわたる、是よりしては江戸の土地に帰り、見聞の事江戸にありて筆記事かはれり、


坂本鉉之助「咬菜秘記」その47
 「浮世の有様 巻之六」 摂州能勢一揆の模様摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記


『事々録』目次/その42/その44

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