|
さて此今橋筋では、鴻池一統は云ふまでもなく、天王寺屋五兵衛、平野
屋五兵衛、などの家を焼き立て、高麗橋筋へかゝりましたが、同町には三
井呉服店、岩城呉服店などへ火を放ちましたが、此時に三井呉服店では、
うち
多くの土蔵の中、二戸前だけ焼け残りました、其焼け残つたる土蔵は、今
日尚ほ三越呉服店で使用して居り、同店の南手にある、四番の荷物庫と、
五番の木綿庫が、即ち夫れでございます、此二戸前の土蔵こそ、実に大塩
騒動の紀念物とでも申しませうか、扨此処より二手に別れまして、今橋と
高麗橋を東に渡り、東横堀に沿ふて南に進み、内平野町の米屋平右衛門の
門口へ来たときに、例の庄司儀左衛門は。
儀『当家は殊更に怨みあり、ソレ討てツ』
おほづゝ
と下知しましたので、大砲の支配をして居た金助が。
金『心得たり』
ひぐち
と打放したる大砲の火口に吹かれ、儀左衛門は、右の手首其他に負傷し
おど あるじ つもり
たが、更に屈せずして米屋の家に躍り込み、主人平右衛門を殺害する心算
でございましたが、モウ同家の家族は避難をして、重立つたる者は居りま
せんでした。
何故庄司儀左衛門が斯んなに恨みを含んで居たかと云ふと、是は先達つ
て大塩平八郎が、鴻池善左衛門方へ金談に往つた時に、大方金調の出来て
ごん
あつたのを米屋平右衛門が、一言の注意から不調になつたので、其事を根
に持つて居るから、殊更に大砲を打込ませたと云ふ事でございます。
かね/゛\
扨予々大塩から手を廻して、大阪の天満の火事のあつた節は、早速に駈
いひつ
付けるやうにと、吩附けありました近在の者共は、スワ大阪に大火がある
と云ふので、追々馳せ加はりました。
扨跡部山城守に於きましては、配下の与力同心と雖も、斯うなつて見る
と大塩に同意の者があるかも知れないから、少しも心を許す事は出来ませ
ん、と云つて今日の場合、夫れを吟味をする事は、到底むづかしうござい
ますから、此騒動の鎮撫方に当惑いたし、兎も角も御城代の力を借りるよ
り他に策はないと心得、早速御城代土井大炊頭の屋敷に至り。
はか しゆつたい いろ/\
山『扨今日慮らざる椿事出来仕り、就ては種々御配慮に預かり、何共ハ
ヤ恐縮の至りにございまする、拙者の手にて取鎮め申すべきの処、組与力
また同心の者等の善悪邪正が、今日の場合一向に相分り兼ね、夫れが為め
未だ斯くの如き有様、甚だ不都合千万……何分取鎮むるに人数払底にて、
困却いたし居ります、何卒玉造の与力同心等を御貸し下さる様、此儀御願
ひの為め罷り出でましてございます』
大炊頭には気の毒に思はれまして。
さぞ
大『実に容易ならぬ椿事出来に及び、嘸心労の事でござらう、幸ひ玉造
ぜうばん
の御定番遠藤但馬守殿にも登城いたされて居らるれば、一応其事を申し談
じて見ませう』
と大炊頭より御相談になりましたので、但馬守にも早速御承知になつて、
玉造の与力阪本源之助、本多為助、蒲生熊次郎の三人に同心三十人を相添
へて、跡部山城守へお貸しに相成りましたので、此人々は奉行所の乾の方
に梅の林がございます、其処を切開いて鉄砲の筒口を揃へ、今にも逆徒の
押寄せ来たらば、防ぎ止めんと待搆へて居りました。
|
豪商等所在地図
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その117
幸田成友
『大塩平八郎』
その133
大坂役人録
(天保八年年頭)
|