Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.12.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その89

香川蓬洲

精華堂書店 1912

◇禁転載◇

第十八席 (3)

管理人註
   

 処へ注進の者が参り、大塩勢は益々破竹の勢ひを以て、市中を焼き立つ                    る其乱暴、いつ鎮まるとも思はれずとの報らせでございますから、山城守 も今は自身に出馬を致す事になり、またもや今度は直接に遠藤但馬守へ、 加勢の儀を申し入れましたる処、但馬守には早速にまた、柴田勘兵衛、脇 勝太郎、米倉棹次郎、石川彦兵衛の四人を召出し、加勢の事を命じました           かしこ        すぐ る処、四人の者は委細畏まり奉ると、其儘直に立出でんとする有様を、遠 藤但馬守、御覧になつて。  『アゝコレ/\、其方共は常服の上に、火事装束を着けしまゝではな いか、せめては下に着込にても、着けて参らずば相成るまい』  と仰せられました、其時に柴田勘兵衛。             やつばら  おほづゝ              たと  『アイヤ承れば賊徒の奴原、大砲を用ひ居るとの事、然すれば吾々仮 令身に甲冑を着け居るとも、其弾丸を妨ぐ事が出来ませうや、素より戦場 に臨むからは、生て再び還る心はございません、此儘にて賊軍の中に立向 ふとも、お気遣ひ御無用に願ひます』       あつぱ        ごん  『ウム、遖れ勇士の一言、大丈夫の心底、感ずるに尚ほ余りあり、急 いで参れ』  四人『心得ました』  と町奉行所へと駈行きました、扨また京橋御定番米倉丹後守には、其頃                        おほぶ 江戸表に居られまして、大阪の方は留守居として、大生仁右衛門と云ふ人 が預つて居ります、山城守には其大生仁右衛門の方へも、加勢の事を申し 入れましたが、仁右衛門には、何分にも主人は不在中であるから、京橋口 の防ぎの用意も致さねばならぬと云つて応じません、其時に土井大炊頭の 家来、中山半兵衛、大村太左衛門と云ふ両人が来合せて居りまして、米倉 侯へは吾々より、後に至つて能きに申し入るれば、かゝる急場の事だから、 御加勢あつて然るべしと、頻りに勧められて、仁右衛門も是非なく、京橋      うち 口の与力の中より、横瀬佐右衛門、沖鉄之助、清水理兵衛の三人へ此役目 を申し附け、同心三十人を従へさせ、跡部山城守へ遣はしました。  尤も西奉行堀伊賀守も、出馬に及びまして、一刻も早く賊徒の奴等を取 鎮め、一方にはまた火事の方をも、消止めさせねばなりませんので、両町 奉行手分けをして、夫々指揮に及びましたが、其日の八ツ前、今日の午後 一時過ぎでございます、跡部山城守には淡路町堺筋の方へ押行きましたる                                 とき 処、向ふよりして大塩勢が、旗さしものを翻へして大砲の車を挽かせ、鬨                                こをど を造つて参りましたる中に大塩平八郎、早くも跡部山城守と見るより雀躍 りして、イデヤ年来の本意を達するは今此時なり、人々掛れと下知に及び ました。  此時オウと答へて立現はれたるは、高槻の浪人生駒玄蕃、勢州山田の浪 人安田図書の両人、いづれも抜群の勇士、玄蕃は宝蔵院流の槍の名人、図                          ひてう 書はまた関口流の大太刀の達人でございまして、両人は飛鳥の如く駈け廻   おのれ り、汝奸吏の奴原、皆殺しになさんと、大砲の筒口を向けんとしたが、道 路の狭い為に思ふやうに車が動きません、ソレ車を向け直せ、早く打てよ           さきそな と焦る中に、山城守の先備への同心は、鉄砲の筒口を揃へて打出しました ので、大塩勢に於ても同じく小筒を打出し、暫らくの間は烈げしき砲戦と                    いわ なつて、此時に双方ともに負傷者を出し、謂ゆる乱軍と云ふ有様、見る/\ うち       たまぐす           ときのこゑ 中に鉄砲の玉煙りは、天をも焦さん計り、ワアーワアーと揚ぐる鯨声、矢       かまび              た ま 叫びの音は、喧すしく、雨霰と降り来る鉄砲の弾丸の響は、実に百雷の一 時に落ち来るかと思はれ、大阪市中の目貫とも云ふべき、船場から上町は、    くろこげ 今にも黒焦ともなるべき有様でございます。


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その119

幸田成友
『大塩平八郎』
その141 

大坂役人録
(天保八年年頭)


大塩焼図


『大塩平八郎』目次/その88/その90

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