山陽と平
八との学
術上の方
針
|
夫山陽之善属 詩文 洞 通史事 。詩客文人之所 知。而我則嘗為 吏。与
参訟獄 。且講 陽明王子致 良知 之学 者也。以 世情 視 之。則如 不
○ ○ ○ ○ ○ ○
与 山陽 相容 然。然往来不 断。送迎不 絶。何也。余善 山陽 者。不
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
在 其学 。而竊取 其有 胆而識 矣。而山陽有 何所 観以善 我乎。吾初
○ ○ ○
不 識也。
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
某は外に求めて内に儲へ候、山陽は学術的に於ては帰納的研究法を取りしな
○ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
り、卿は心を洗ふて内に求め候、平八は演繹的研究法を取りしものなり、直
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
覚的頓悟法を取りしものなり、研究の方針は斯の如く相友せり、而かも平八
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
は夙に久太の胆識には服したるなり、久太も亦た平八の胆識に服したるなり、
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
特に其の陽明学者として、嶄然頭角を現はし、一世に睥睨するの気骨に服せ
○ ○ ○
しなり、而して今や山陽亡し、哀哉痛哉、千古の遺憾、而して平八は特に其
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
の「一生之心血、半在 於此書 。」となす所の剳記、刻未だ成らず、而して
○ ○ ○
久太之を閲し之を評するに及ばずして早く鬼籍に列するを以つて、「余一生
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
涯之遺憾也而已矣、」となせり、明年四月剳記成る、此の時久太の子余一江
戸より芸に還るの途、平八に過ぎり、謀るに其考久太の碑面謚号の字の大小
を以てせり、平八因りて剳記一部を挙げて、之を余一に与ー、謂らく、
|
高瀬武次郎
「大塩中斎」
その8
嶄然
(ざんぜん)
一段高くぬき
んでているさ
ま
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その54
芸
安芸の国
|