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理気合一論 中斎は陽明の説に基き、理気合一論を主張した。「洗心
洞剳記」の中に、「先天は理のみ、而して気其の中にあり、後天は気のみ、
而して理其の中にあり、要するに理と気と一にして二、二にして一なるもの
なり。」と言ひ、また、「後天よりしてこれを視れば、則ち理と気と分つべ
きに似たり。先天にありては、固より理気の分つべきなし。」と述べて居る。
人は皆理と気とを合一して、これを其の身に具有して居る。されど其の理あ
るを知つて気あるを知らざる者もあり、其の気あるを知つて理あるを知らざ
る者もある。前者は道の本体に合すること能はず、後者は其の意を断行する
勇気に乏しい弊がある。勇士には前者が多く、儒者には後者が多い。また常
人は理あることも気あることも知らずに居る。理気合一を其の身に体認し、
天地と徳を同じうし、陰陽の功を等しうする者はたゞ聖賢のみである。彼は
「洗心洞剳記」の中に、「勇士気を養ふて理を明かにせず、儒者理を明かに
して気を養はず、常人は則ち亦気を養はず、亦理を明かにせず、栄辱禍福惟
だこれ趨避のみ。理気合一、天地と徳を同じうし、陰陽と功を同じうするも
の、其れ唯た聖賢か。」と述べて居る。中斎の説によれば、理は則ち太虚で
ある。従つて理を体認すれば、其の人は即ち太虚にして世界の万事万物、す
べて其の心中に帰せざるはないのである。
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井上哲次郎
「大塩中斎」
その24
『洗心洞箚記』(本文)
その48
『洗心洞箚記』(本文)
その163
『洗心洞箚記』(本文)
その17
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