Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.11.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『日本倫理学史』(抄)その5

三浦藤作 中興館 1943

◇禁転載◇

第三篇 近世  第四章 徳川時代の諸学派
  第二 陽明学派
   第六節 大塩中斎(5)
管理人註
  

  ● ● ● ● ●  理気合一論 中斎は陽明の説に基き、理気合一論を主張した。「洗心 洞剳記」の中に、「先天は理のみ、而して気其の中にあり、後天は気のみ、 而して理其の中にあり、要するに理と気と一にして二、二にして一なるもの なり。」と言ひ、また、「後天よりしてこれを視れば、則ち理と気と分つべ きに似たり。先天にありては、固より理気の分つべきなし。」と述べて居る。 人は皆理と気とを合一して、これを其の身に具有して居る。されど其の理あ るを知つて気あるを知らざる者もあり、其の気あるを知つて理あるを知らざ る者もある。前者は道の本体に合すること能はず、後者は其の意を断行する 勇気に乏しい弊がある。勇士には前者が多く、儒者には後者が多い。また常 人は理あることも気あることも知らずに居る。理気合一を其の身に体認し、 天地と徳を同じうし、陰陽の功を等しうする者はたゞ聖賢のみである。彼は 「洗心洞剳記」の中に、「勇士気を養ふて理を明かにせず、儒者理を明かに して気を養はず、常人は則ち亦気を養はず、亦理を明かにせず、栄辱禍福惟 だこれ趨避のみ。理気合一、天地と徳を同じうし、陰陽と功を同じうするも の、其れ唯た聖賢か。」と述べて居る。中斎の説によれば、理は則ち太虚で ある。従つて理を体認すれば、其の人は即ち太虚にして世界の万事万物、す べて其の心中に帰せざるはないのである。


井上哲次郎
「大塩中斎」
その24


『洗心洞箚記』(本文)
その48


『洗心洞箚記』(本文)
その163





















『洗心洞箚記』(本文)
その17


『日本倫理学史』(抄)目次/その4/その6

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