Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.11.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


『日本倫理学史』(抄)その8

三浦藤作 中興館 1943

◇禁転載◇

第三篇 近世  第四章 徳川時代の諸学派
  第二 陽明学派
   第六節 大塩中斎(8)
管理人註
  

  倫理説  太虚は宇宙の本体であり、心の本体であり、万事万徳の本源である。太虚 に帰するは道徳上の理想に達することである。従つて中斎の倫理説は、太虚 に帰する方法の研究である。太虚は良知である。太虚に帰するは良知を致す と同じである。  帰太虚即ち致良知の積極的方法として、中斎は戒慎・恐懼・頓悟の三を掲 げた。良知を明かにするには、私欲を払はなければならぬ。私欲を払つて、 先天本具の良知を明かにすれば、其の心は天に通じ、何人も聖人の地位に達 することが出来る。聖人と太虚とはたゞ其の名を異にするのみ、太虚は言な き聖人、聖人は言あるの太虚である。私欲を一掃するの道は戒慎である。恐 懼である。頓悟である。此の三者によりて、胸中に存する一切の妄念を絶滅 し、微細の私欲をも止めざるに至れば、心は既に太虚に帰して居る。  帰太虚の消極的方法として、中斎は先づ気質を変化せしむべきことを挙げ た。気質は私欲の生ずる淵源である。中斎は此の気質を一定不変のものと見 ず、自由に変化すべきものとした。自由に変化せしむることを得るが故に、 人は君子ともなり、小人ともなることが出来る。「君子の善に於けるや、必 ず知行合一、小人の不善に於けるや亦必ず知行合一、而して君子若し善を知 りて行はざれば、小人に変ずるの機、小人若し不善を知りて行はざれば、則 ち君子に化するの基、是を以て君子亦恃むに足らず、小人亦鄙むべからざる なり。」と言つて居る。第二に中斎は死生を一にすべきことを挙げた。私欲 を除いて太虚に帰すれば、其の身は死するとも、其の心は永久に滅びざる不 生不死の境界に入ることが出来る。心が果して死せざれば、此の世に於て恐 れるものはない。死生を一にし、其の身の死することを恐れざるは、太虚に 帰するの道の一つであつた。「常人天地を視て無窮となし、吾を視て暫とな す。故に欲を血気壮時に逞うするを以て務となすのみ。而して聖賢は則ち独 り天地を視て無窮となすのみならず、吾を視て亦以て天地となす。故に身の 死するを恨みずして心の死するを恨む。心死せざれば則ち天地と無窮を争ふ。 これ故に一日を以て百年とし、心凛乎として深淵に臨むが如し。須臾も放失 せざるなり。故に又嘗て物を以て志を移さず、欲を以て寿を引かず、要する に人欲を去り天理を存するのみ。」と言つて居る。第三に中斎は虚偽を去る べきことを挙げた。己を欺き、人を欺くは、これ即ち良知に反するの所行で ある。己を欺かず、人を欺かず、たゞ誠実の心を以て万事を貫かば、良知の 功用が顕はれずと云ふことはない。「良知を致すの学、たゞ人を欺かざるの みならず、先づ自ら欺くことなきなり。而して其の功、夫れ尾漏より来る。 戒慎と恐懼と須臾も遣るべからざるなり。一旦豁然として天理を心に見る。 即ち人欲氷釈凍解す。是に於て常に洒脱の妙、これに超ゆるものなきを知る べし。」と述べて居る。





井上哲次郎
「大塩中斎」
その27






頓悟
長期の修行を経
ないで、一足と
びに悟りを開く
こと





























『洗心洞箚記』(本文)
その109

















『洗心洞箚記』(本文)
その133

























『洗心洞箚記』(本文)
その184


『日本倫理学史』(抄)目次/その7/その9

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