Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.7.23 .

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大塩の乱関係論文集目次


『青 天 霹 靂 史』

その31

島本仲道編

今橋巌 1887刊 より

◇禁転載◇

然れとも是をして此に至らしめたる者は、抑亦誰の罪ぞや、思はざる可らず、

古来往々拙劣なる官吏は施政の宜しきを得ず、一をて十を失ふが如き失錯を施す事少しとせざる者なるが、今大阪の有司輩の如きも亦此徒に外ならざりしなり、歎ぜざる可んや、

二十一日に至れば火全く燼滅したるを以て、大炊頭は令を全府に下して、諸氏其途に安んじ営業すべき事を伝ヘ、別に又倉廩を開て、市民の貧困にして類焼する者を救助せしむべきを令し、先づ道頓堀の劇場を以て救護場に充て、次で天満橋の南北に各一ケ所、天王寺村の元蔵跡に一ケ所の救護場を造り、之を七ケ所の場に入れて救護せしめたり、

葢し其衆は無慮三千百二十余人の多きに至れり、市中の豪商も亦之を見て救助の義挙を為す者少からず、其人は四十三人にして、其出す所の金は、二万七千三百貫文、米は拾余俵の多きに及びたりと云ふ、

上の為す所、下之に傚ふの風ある事知るべきのみ、

而して大炊頭よりは一々事の状を具して、江戸の帥府に禀申し、又京都の諸司代及び傍近の各奉行諸藩に通牒して、暴徒の探求を尽せしにより、平八郎の党人等は皆以て潜匿する事を得ず、或は自死する者あり、或は首出する者あり、然らざる者は捜索に遇て縛に就く、其旨は一ならざれとも、大率皆数日を出でずして其踪跡を知るを得たり、

然れとも惟平八郎格之助との二人のみは未だ以て其行く所を知らず、故に二人を山澤に行(ヤ)り河海に走らして之を求むる事数日にして、遇ま人の一屍を道頓堀の河中に得て奉行所に出す者あり、其面貌腐爛して知る可らずと雖とも、身材骨格宛として平八郎の如し、因て平八郎の妾ゆうを呼で之を見せ、其真偽を判ぜしむ、


「大塩乱」(大阪市史)その12
「浮世の有様 巻之六 大塩の乱」 その16


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