大塩の乱 その16 |
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大 塩 一 味 の | 牧(枚)方の上辺にのうねん村 *1 といへる所の庄屋・年寄抔、五人の者頭立つて大塩に与みし大塩と一時に起り、五百人の百性を従へ淀の城を攻むるの積りなりしに、大塩が手筈違ひぬるにぞ、是等が同意せし事も忽に相顕れ、大勢を召捕り来りしといふ。こは天満なる瑞光寺が咄なり。 |
百 姓 |
町 人 騒 動 中 見 物 す |
又同人がいふ、 「大塩が屋敷火事なりといふや否や、直に権現様へ馳付け何か取片付をなせる内、火矢にて処々方々を焼立つる故、其有さまを眺め居しに、町家の人々は常の火事の如くに思しにや、又こはき物見たしと思へるにや、其辺をあちらこちらと走廻れる者多かりしが、士たる者をば一人も見当らず。 御奉行を始め与力・同心の類も其場処へ参れるものなし、けしからぬ事なりし。此の如くに乱妨仕次第なれば、次第にあばれあるき、わが寺も危く思ひし故、寺に引取り諸道具大抵外へ取除けしか共、寺は申に及ばず其持出したる道具をも、一つも残らす焼失ひし」といふ。 大塩は其夜渡辺の穢多村にて一宿し、三百両の金子を与ヘ、其明る日髪を剃て坊主に形を変へて落去りぬ。此旨公辺へ知れぬる故、これにかゝはりし穢多共大勢召捕られしといへり。 此事は世間にても専ら其噂せし事なりしが、其実を知らず。 | |
正 念 寺 村 の 百 姓 召 捕 へ ら る |
正念寺村(のうねん寺か正念寺か詳かならず。)*1
の百性大勢召捕られ、発頭人五人入牢にて、其余百五十人斗手錠にて村預けとなりしにぞ、此者共に飯をくはせるに、一村の婦女かゝりはてぬる事にして、大混雑なりといふ。
江州彦根には京都悲田寺より、大塩平八郎大和とやらん伊賀とやらんを経て、四五人連にて慥に江州へ出ぬる由を告げ来りしにぞ、山林其外道もなき嶮難の処迄も、人数を払つて固めしか共、其事あらざりしといふ。 又京都の固め厳しき事なれば、彦根も上京して、其人数たらん事を所司代へ 松平伊豆守 伺はれしかども、「まづ其儀に及ばず、殊によりて此方より沙汰をなすべし」との答へなりしといふ。こは彦根藩中の者、新見家中小山三蔵が方に来りて談りしといふ。 | |
大 塩 が 用 ゐ し | 大塩が用ひし石火矢の大筒、木にて作れるは森口にて拵ヘ、鉄筒は高槻侯より借り来りしと云ふ。此侯大塩信仰にて常に目通せる事故、侯に直に願ひて借り得しといへり。其大炮の筒二の見の見当の処に、高槻の銘有といふ。斯くて大塩なる事をば、定めて知らずして借し与へられしなるべけれども、今更申訳も立ち難からん、いかゞなれる事にや。 |
大 筒 |
水 死 人 と 大 塩 | 大塩平八郎もしや水死せし事もあらんかと、其当座よりして川々はいふに及ばず、海底迄も日々探し廻れども少しも手掛の事なし。三月十三四日頃に水中にて、膨れかへりし死骸一つ見当りしかば、これを引上て御奉行所へ持来りしか共、水膨れにふくれかへりし死骸なれば、何とも分り難ければ、大塩が妾の捕はれある事故、之を引出し、「此死骸平八郎にてはなきや、体の内どこにても何ぞ見覚えし心当りや有る」と尋ねられしか共、「外にこれぞと申べき目印なし。一両年あと奥歯一枚ぬけし事ありといひしにぞ、穢多をして其口を開てこれを捜らしめしに歯悉く揃ひありし故、其儘之を捨てられしとなり。 |
平 八 郎 |
米 価 騰 貴 の 為 |
三月半頃に至りぬれば、米価次第に尊くなりて、悪き米一升二百五十文より外に出でぬるにぞ、貧窮の者は愈々口を糊する事能はざるに至りぬるにぞ、非人・乞食の類ひはいふに及ばず、諸人餓死するもの少なからずといふ。 斯る有様なれば自ら人気も厚がましくなりて、屈強の若者十人も十五人も一群に成て豪家へ到り、「空腹にて堪へ難し、食を与へられよ」と云ふ。この者共にあしく当らば忽ち大変に及ふべき有様なるにぞ、何れも飯を与へ銭を与へ抔して、之に逆らはざる様にすといふ。何れも之に困りぬる様子なり。
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人 気 悪 し |