Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.12.19

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『通俗洗心洞箚記』
その1

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

序 言 (1)

管理人註
  

 「洗心洞箚記」は、大阪騒動の乱魁大塩平八郎の著である。平八郎、名 は後素、字は子起、中斎と号し、易の「聖人は心を洗ひて密に蔵る」の語 に因みて、其の居を洗心洞と名づけた。生国は阿波、本姓は真鍋、幼時大 阪に出でゝ一与力大塩家に養はれた。長じて江戸に学ぶ数年、帰阪後、家 を嗣ぎて与力となり、高井山城守の奉行たるに及びて吟味役に進み、至誠 以て事に当り、妖教を除き、姦邪を治め、貪墨を黜け、公廉を奨むる等、 其の功績頗る見るべきものがあツた。後、職を辞して閑地に就くや、専ら 心を聖経に潜め、道を儒門に求めたが、当時の学者多くは訓詁詞章の末に 泥みて修道に実得なきを見、慨然として退き、独り自ら道に達せんと困苦 研鑚怠らざる折柄、舶来の呂新吾が「呻語」を得、味読一番、豁然とし て悟る所あり、遂に陽明学に赴きて致良知の旨を体得するに及びて、弟子 の其の門に教を請ふもの日に益々多きを加ふるに至ッた。彼は其の直截簡 易の学を布くに、厳正峭直の気を以て弟子に臨んだ。其の洗心洞入学盟誓 中に現はれたる教育主義は『命がけの教育』てふ一語に之を約することが 出来る。彼は教育者としても亦特独の地歩を史上に占め得た。  天保の饑饉は、其の厄、殆ど国内全土に亘ッて大阪の地亦日に益々餓 の多きを見るに至ッた。彼は此の惨状を見るに忍びず、遂に賑恤の策案を 立てゝ時の奉行跡部山城守に致した。再度の請願、然しながら用ひられな かッた。窮民は飢ゑて道路に坤吟し、凍えて溝壑に斃るゝもの頻々、それ さへあるに、奉行跡部は、奸商輩と結託して賄賂に私腹を肥やさんとすと の噂さへ聞ゆるに至ッた。是に於て彼は、己が蔵書千二百余部を売却し、 悉く其の代金をあげて市内の窮民一万余人に旋与した。然るに.奉行跡部 は此の挙を以て『私名を売らんとする者』となし、彼の息格之助を召出し て甚く譴責を加へた。已んぬるかな。斯くて終に.彼の心魂は破裂した―― 大阪騒動。



幸田成友
『大塩平八郎』
その7







黜(しりぞ)け





泥(なず)みて



通常は
「呻吟語」

峭直
(しょうちょく)
人柄が峻厳で
ある

『洗心洞箚記』(抄)
その6



(がひょう)
飢えること




溝壑
(こうがく) 
みぞ、どぶ


『通俗洗心洞箚記』目次/その2

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