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「洗心洞箚記」は、大阪騒動の乱魁大塩平八郎の著である。平八郎、名
は後素、字は子起、中斎と号し、易の「聖人は心を洗ひて密に蔵る」の語
に因みて、其の居を洗心洞と名づけた。生国は阿波、本姓は真鍋、幼時大
阪に出でゝ一与力大塩家に養はれた。長じて江戸に学ぶ数年、帰阪後、家
を嗣ぎて与力となり、高井山城守の奉行たるに及びて吟味役に進み、至誠
以て事に当り、妖教を除き、姦邪を治め、貪墨を黜け、公廉を奨むる等、
其の功績頗る見るべきものがあツた。後、職を辞して閑地に就くや、専ら
心を聖経に潜め、道を儒門に求めたが、当時の学者多くは訓詁詞章の末に
泥みて修道に実得なきを見、慨然として退き、独り自ら道に達せんと困苦
研鑚怠らざる折柄、舶来の呂新吾が「呻語」を得、味読一番、豁然とし
て悟る所あり、遂に陽明学に赴きて致良知の旨を体得するに及びて、弟子
の其の門に教を請ふもの日に益々多きを加ふるに至ッた。彼は其の直截簡
易の学を布くに、厳正峭直の気を以て弟子に臨んだ。其の洗心洞入学盟誓
中に現はれたる教育主義は『命がけの教育』てふ一語に之を約することが
出来る。彼は教育者としても亦特独の地歩を史上に占め得た。
天保の饑饉は、其の厄、殆ど国内全土に亘ッて大阪の地亦日に益々餓
の多きを見るに至ッた。彼は此の惨状を見るに忍びず、遂に賑恤の策案を
立てゝ時の奉行跡部山城守に致した。再度の請願、然しながら用ひられな
かッた。窮民は飢ゑて道路に坤吟し、凍えて溝壑に斃るゝもの頻々、それ
さへあるに、奉行跡部は、奸商輩と結託して賄賂に私腹を肥やさんとすと
の噂さへ聞ゆるに至ッた。是に於て彼は、己が蔵書千二百余部を売却し、
悉く其の代金をあげて市内の窮民一万余人に旋与した。然るに.奉行跡部
は此の挙を以て『私名を売らんとする者』となし、彼の息格之助を召出し
て甚く譴責を加へた。已んぬるかな。斯くて終に.彼の心魂は破裂した――
大阪騒動。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その7
黜(しりぞ)け
泥(なず)みて
呻語
通常は
「呻吟語」
峭直
(しょうちょく)
人柄が峻厳で
ある
『洗心洞箚記』(抄)
その6
餓
(がひょう)
飢えること
溝壑
(こうがく)
みぞ、どぶ
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