Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.12.20

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『通俗洗心洞箚記』
その2

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

序 言 (2)

管理人註
  

 彼は儒者ではあッたが、尋常平凡なる儒者では無かッた。近藤重蔵や頼 山陽やを意気の友として親交を結ぶほどの儒者であッた。楓爽雄偉なる容 貌、激歯濫ュの気象、而して内に輝く明煌々の良知、然り彼は確に近代学 界の一俊傑であッた。陽明学者として彼は、藤樹の和熟なる徳は無かッた。 蕃山の経綸的才幹は無かッた。一斎の幽妙なる思藻は無かッた。而も理想 実現の為めに直前邁往する不退転の意力と、汎く衆を愛して一毫の邪曲私 心をも挟まざる純情とに於て、彼は最も強く、高く清かッた。此の人格、 強く、高く、清き此の人格は、凝ッて「洗心洞箚記」となッた。「洗心洞 箚記」は彼大塩平八郎の人格の結晶であり表現である。「剳記」の刻成る や、彼は言ッた。『一代の心血此の書にあり』と。斯くて彼は、一本を伊 勢朝熊山頂に燔きて皇祖天照大神の神霊に告げ、更に一本を富士山腹の石 室に蔵して千載の下に知己を待たうとした。尤も、朝熊山頂にて燔くの挙 のみは、後に足代弘訓の勧告を容れてて、勢廟文庫たる豊宮崎、林崎の二 文庫へ奉納するに変更した。  「剳記」の価値は、時の学界の最高権威者であッた佐藤一斎が『御実得 の事ども人をして感発興起欣躍に勝へさらしむ、拙老などの及ぶ所にあら ず。』といひ.又『前人未発の條一にして足らず。』と讃したるに徴して も略々推定することが出来る。精神修養の書として「菜根譚」、「言志四 録」と同列に位する外、其の峻厳峭酷なる人物事蹟と併せ考ふる時、更に 別様の興味あるは言ふまでもない。たゞ、文章其のものゝ平易なる割合に 引用句多く、為めに原文のまゝにては、一般青年の読物に適せざるを思ひ、 茲に之を極めて平易なる口語文に訳し、原文は上欄に掲げ、難解の箇所に 別に抽出して略解を附し、思想の惑ひ易きは特に批評を加へたるが、此の 「通俗洗心洞箚記」である。  されど本書は原本の全部を訳述したのでは無い。原本中,全然学説に関 するもの、思想文章の重複せるもの等は之を省き、専ら処生修道の箴言と して価値あるものを採ッた。原本にては上巻に百八十條、下巻に百三十五 條ある中、本書は上巻より七十余條、下巻より四十余條を訳出し、且つ原 本には題目なきも、本書には繙読の便を計りて一條毎に題目を附することゝ した。  近時、我が国人の思想漸く浮華に流れ、徒らちに利欲を趁ふに急にして 義理を顧みざる今日、人欲の私を去ッて天理の公を存するを以て本領とせ る本書の広く世に行はれんことを希ふは、必ずしも徒爾で無いと信ずる。 たゞ恐る。訳者の非オ浅学、原著の真義を誤り伝ふるが如き粗漏の少なか らざるべきを。   大正二年九月                           訳者識











邁往
(まいおう)
ひたすら進む
こと。邁進

汎(あまね)く








燔(や)きて



幸田成友
『大塩平八郎』
その58

































繙読
(はんどく)
書物をひも
とくこと


趁(お)ふ



徒爾
(とじ)
むだである
こと
 


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