自口耳之虚、至
五臓方寸之虚、皆
是太虚之虚也。而
太虚之霊、尽萃乎
五臓方寸之虚。便
是仁義礼智之所家
焉也。其所家焉之
仁義礼智、即太虚
所循環之春夏秋
冬也焉耳。由是観
之、則仁義礼智与
春夏秋冬異而同。
故昔人曰。「人者天
也、天者人也。」夫
子所謂「天何言哉。
四時行焉、百物生焉。
天何言哉。」是将
天言人徳也。然則
曰天者人也人者天
也不亦理乎。
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口耳の虚より五臓の虚に至るまで、皆是れ太虚の虚である。
而して太虚の霊なるもの、尽く五臓六腑の虚に萃る。便ち是
やど やが
れ仁義礼智の家る所である。其の家る所の仁義礼智は、即て
太虚に於ては循環して止まざる春夏秋冬と同一本体である。
して見れば、人の徳たる仁義礼智と、天の徳たる春夏秋冬と
は異なるが如くにて実は同じ処である。さればこそ古の人は
(一)
言ッて居る。『人は天である。天は人である』と。孔夫子の
(二) ものい
『天何をか言はんや、四時行はれ百物生ず、天何をか言はん
か
や』と言はれたのは、是は正しく天を将りて人徳の偉大なる
を言はれたのである。此れより推して考へても、「天は人で
ある、人は天である」、と言へる、亦頗る真理を道破したる
ものと言はんければならぬ。
(一)人は小体の天にして、天は大体の人であるとは東
洋哲学に於て常に唱へ来れるところ、而して西洋哲
学に於ける大我小我の関係論と其の帰趣を一にする。
(二)論語にある名句、実行の徳を讃美したものである。
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『洗心洞箚記』
(本文)その185
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