不知障乎雨、而
到於与人所約処、
便最知命也。如先
卜将雨而不到焉、
便是不知命也。夫
君子之云命者、非
卜筮及世俗所云之
命者也。体道者而
後能知之。
|
雨に障害をも知らないで、人と約束した場所に行ッたとし
もし
たなら、それは運命を知れるものである。如、先づ雨の将に
降り来らんとするを卜して約束の場所に行かなかッたとすれ
ば、それは運命を知らざるものである。君子の謂ふ所の運命
うらなひ
と、卜筮や世俗に謂ふ所の運命とは違ふ。此の事は、真に道
を体して後始めて知ることが出来る。
自分の尽すべきを尽さずに、斯の約束を違へねばならぬ
ことゝなッたのも運命だと、自己の怠情からの違約を弁
護する如きは決して命を知るものとは言へない。たとひ、
如何なる運命にせよ、人事はどこまでも尽さんければな
らぬ。尽すべきを尽した結果、何れの点に到達しようが
それを悲観せぬが真に命を知れるものである。此の一條、
通俗の例を以て、浅薄なる運命論の斥くべきを言ひ、真
の「命を知る」の如何なるものなるかを言ひて頗る肯綮
に当れるを思ふ。
|
『洗心洞箚記』
(本文)その200
肯綮
(こうけい)
物事の急所
|