Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.5.31

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『通俗洗心洞箚記』
その113

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

下巻 (27)二九 何と貴いでは無いか

管理人註

虚亦、有人為之虚、 与天成之虚之別。 人為之虚者、即宮 室空豁之類也。天 成之虚者、即人物 心口之類也。人為 之虚乃不霊、而天 成之虚皆含其霊。 而人受之以最秀者 也。然人有欲、則 天成之虚反為不霊、 而人為之虚則以本 不心、容物無 終始焉。而要皆是 太虚之分散也。故無 欲則天成之虚、其霊 乃如神。而人為之 虚、容物如此。則 虚之徳豈非貴乎。

 虚にも亦人為の虚と天成の虚との別がある。人為の虚とい ふのは何か、宮室の空豁なるが如きそれである。天成の虚と いふのは何か、人物の心口の類ひがそれである。人為の虚は 霊活では無いが、天成の虚は皆霊活である。人は其の霊活の 力を受けて天地間に於て最も秀でたるものである。けれども、 人にして若し人欲の私に囚はるゝならば、天成の虚でありな がら其の霊活の力を失ッて了ふ。人為の虚は、もと心なきを 以て常に物を容れて終始なしである。要する所、人為の、天 成の、それ何れなるにせよ、皆、太虚の分散たる点に於ては 変りはない。故に、天成の虚は、若し欲を以て之を塞ぐなら ば、其の霊なる真に神の如く、人為の虚亦常に物を容れて何 等の私もない。あゝ虚の徳、何と貴いでは無いか。

                        人為の虚といひ、天成の虚といひて空間を区別したる如 き、余りに形相に囚はれたるの感なきを得ず。中斎には、 純粋の抽象的観念はなかッたかとも思はれる。是れ中斎 の太虚を通俗的にのみ比喩し得て、哲学的に扱ひ得なん だ所以であらう。此等の点は、読者宜しく比喩の功なる ものとして味ふべきである。それ以上の科学的追及は、 反ッて中斎学の功を没却することゝなる。

『洗心洞箚記』
(本文)その201
 


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