虚亦、有人為之虚、
与天成之虚之別。
人為之虚者、即宮
室空豁之類也。天
成之虚者、即人物
心口之類也。人為
之虚乃不霊、而天
成之虚皆含其霊。
而人受之以最秀者
也。然人有欲、則
天成之虚反為不霊、
而人為之虚則以本
不有心、容物無
終始焉。而要皆是
太虚之分散也。故無
欲則天成之虚、其霊
乃如神。而人為之
虚、容物如此。則
虚之徳豈非貴乎。
|
虚にも亦人為の虚と天成の虚との別がある。人為の虚とい
ふのは何か、宮室の空豁なるが如きそれである。天成の虚と
いふのは何か、人物の心口の類ひがそれである。人為の虚は
霊活では無いが、天成の虚は皆霊活である。人は其の霊活の
力を受けて天地間に於て最も秀でたるものである。けれども、
人にして若し人欲の私に囚はるゝならば、天成の虚でありな
がら其の霊活の力を失ッて了ふ。人為の虚は、もと心なきを
以て常に物を容れて終始なしである。要する所、人為の、天
成の、それ何れなるにせよ、皆、太虚の分散たる点に於ては
変りはない。故に、天成の虚は、若し欲を以て之を塞ぐなら
ば、其の霊なる真に神の如く、人為の虚亦常に物を容れて何
等の私もない。あゝ虚の徳、何と貴いでは無いか。
人為の虚といひ、天成の虚といひて空間を区別したる如
き、余りに形相に囚はれたるの感なきを得ず。中斎には、
純粋の抽象的観念はなかッたかとも思はれる。是れ中斎
の太虚を通俗的にのみ比喩し得て、哲学的に扱ひ得なん
だ所以であらう。此等の点は、読者宜しく比喩の功なる
ものとして味ふべきである。それ以上の科学的追及は、
反ッて中斎学の功を没却することゝなる。
|
『洗心洞箚記』
(本文)その201
|