明徳者、知之本量
也。不明明徳
而、行仁行義、則
仁而不仁、義而不
義。而罔且殆矣。譬
如捜陳列之器於闇
室中、雖有色色
在焉、以無灯燭
故、不能執得之。
タトヒ
設執得之、不能
断知其所期乎否
乎。疑焉。惑焉。
如照燭而択之、則
亦何難之有。是以人
不可不明明徳。
徳明則衆善皆挙矣。
而其功則在致知格
物誠意正心修身也。
噫、気習深者不用
百倍之功而望其明、
則遂亦帰乎自棄自
暴矣。
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(一)
明徳を明にするが知の本量である。明徳を明にせずして仁
を行ひ義を行ふも、其の仁は真の仁にあらず、其の義は真の
あやふ あやふ
義にならぬ。斯の如きは、罔しとも殆い。譬へば、陳列の器
を闇室の中に捜る如きものである。色色の品物は、そこにあ
あかり たと
るけれども、灯燭なきが故に得て之を執ることが出来ぬ。設
ひ之を執り得たとしても、其の期する所の品物であるか否か
を明確に判断することが出来ぬ。疑ひ惑はざるを得ない。然
るに若し、燭を照して之を択べば、亦何の難きことか之あら
う。是の故に、人は何をさておいても、先づ以て明徳を明に
せんければならぬ。明徳が明でさへあれば衆善皆挙がる。然
らば明徳を明にするには、如何なる方法に依るべきかといふ
(二)
に、そは大学に所謂「致知、格物、誠意、正心、修身」に依ッ
て修養する外は無い。而も此の修養や実に容易の業では無い。
(三)
殊に気習の深きものは、百倍の努力を以て修養せんければな
らぬ。然らずして其の明徳を望むるあらば、遂に亦自棄自暴
に陥らざるを得ない。
(一)明徳を明にするとは、今の言葉で言へば、道徳的
判断力を養ふことである。或は宋儒の良知と同一物
と解することも出来る。大学三鋼領中の第一鋼領で
ある。
○ ○ ○ ○
(二)大学に「……先づ其の身を修めんと欲するものは
○ ○ ○ ○
先づ其の心を正す、其の心を正さんとする欲するも
○ ○ ○ ○ ○
のは、先づ其の意を誠にす、其の意を誠にせんとす
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
るものは其の知を致す、知を致すは物を格むるにあ
り」とある。即ち三鋼領を実現せんが為の修養法で
ある。
(三)気習の深きものとは、今の言葉でいへば、悪い個
性のもの、即ち悪い稟賦に加ふるに、悪い習慣の中
に育ッたものといふ意。習慣の打破、性格の改善の
困難なるは、今の心理学に於ても力説する所、「百
倍の功を用ひざれば自棄に帰する」の言、特に力が
ある。
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『洗心洞箚記』
(本文)その207
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