Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.6.5

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『通俗洗心洞箚記』
その117

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

           あやふ    あやふ
下巻 (31)三三 罔しとも殆し

管理人註

明徳者、知之本量 也。不明明 而、行仁行義、則 仁而不仁、義而不 義。而罔且殆矣。譬 如陳列之器於闇 室中、雖色色 在焉、以灯燭 故、不得之タトヒ 設執得之、不 断知其所期乎否 乎。疑焉。惑焉。 如照燭而択之、則 亦何難之有。是以人 不明徳。 徳明則衆善皆挙矣。 而其功則在致知格 物誠意正心修身也。 噫、気習深者不 百倍之功而望其明、 則遂亦帰乎自棄自 暴矣。

 (一)  明徳を明にするが知の本量である。明徳を明にせずして仁 を行ひ義を行ふも、其の仁は真の仁にあらず、其の義は真の              あやふ    あやふ 義にならぬ。斯の如きは、罔しとも殆い。譬へば、陳列の器 を闇室の中に捜る如きものである。色色の品物は、そこにあ       あかり                  たと るけれども、灯燭なきが故に得て之を執ることが出来ぬ。設 ひ之を執り得たとしても、其の期する所の品物であるか否か を明確に判断することが出来ぬ。疑ひ惑はざるを得ない。然 るに若し、燭を照して之を択べば、亦何の難きことか之あら う。是の故に、人は何をさておいても、先づ以て明徳を明に せんければならぬ。明徳が明でさへあれば衆善皆挙がる。然 らば明徳を明にするには、如何なる方法に依るべきかといふ           (二) に、そは大学に所謂「致知、格物、誠意、正心、修身」に依ッ て修養する外は無い。而も此の修養や実に容易の業では無い。   (三) 殊に気習の深きものは、百倍の努力を以て修養せんければな らぬ。然らずして其の明徳を望むるあらば、遂に亦自棄自暴 に陥らざるを得ない。

                        (一)明徳を明にするとは、今の言葉で言へば、道徳的   判断力を養ふことである。或は宋儒の良知と同一物   と解することも出来る。大学三鋼領中の第一鋼領で   ある。               ○ ○ ○ ○ (二)大学に「……先づ其の身を修めんと欲するものは        ○ ○ ○ ○   先づ其の心を正す、其の心を正さんとする欲するも           ○ ○ ○ ○ ○   のは、先づ其の意を誠にす、其の意を誠にせんとす          ○ ○ ○ ○       ○ ○ ○ ○   るものは其の知を致す、知を致すは物を格むるにあ   り」とある。即ち三鋼領を実現せんが為の修養法で   ある。 (三)気習の深きものとは、今の言葉でいへば、悪い個   性のもの、即ち悪い稟賦に加ふるに、悪い習慣の中   に育ッたものといふ意。習慣の打破、性格の改善の   困難なるは、今の心理学に於ても力説する所、「百   倍の功を用ひざれば自棄に帰する」の言、特に力が   ある。

『洗心洞箚記』
(本文)その207
 


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