韓昌黎曰。「名之所
存、謗之所帰也。」
夫有実徳而有其誉、
有実行而有其声、
則奚謗之招。如云爾、
則無実徳而有其誉、
無実行而有其声者
也。謗之至、不亦宜
乎。故許魯斎曰。「無
実而得誉、可乎。大
誉則大毀至、小誉則小
毀至、必然之理也。惟
聖賢得誉、則無所
可毀、大名之下難処、
在聖賢則異於是、
無於難処者。無実
而得名、故難処。名
美器也、造物者忌多
取。非忌多取、忌
夫無実而得名者」。
韓子学文而窺道者、
故其言如彼。許子理
学名儒、故其言如此。
有虚名者、宜鑒韓
子言以避之、無実
名者、須憤許子言
以立之。
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(一)
韓昌黎は言ッた。
『名の存する所は謗の帰する所である』と。
誉められる丈の徳が実際にあッて、それに相応する誉があ
り、誉められる丈の行が実際にあッて、それに相応する誉が
あるのならば、何の謗をか招かう、決して謗を招く筈は無い。
か つまり
韓昌黎が爾く言ッたのは畢竟、実徳が無くて、其の名誉が有
り、実行が無くて其の声望が有る場合を言ッたのであらう。
斯様な場合に其の誉に伴うて、謗の来るのは当然のことであ
(二)
る。故に許魯斎は言ッた。
よ
『実なきに誉を得て可いものか。若し実無きに誉を得んに
は、大なる誉があれば必ず大なる毀が伴ふであらう。小なる
誉があれば必ず大なる毀が伴ふであらう。たゞ聖賢の誉を得
るは、実あッて得る誉なるが故に、毀の伴ふことは決して無
い。世の人、動もすれば、言ふ、「余りに名誉が高い人にあッ
にく
ては、反ッて活動がし難い」と。けれども、是は常人の虚名
空誉の場合に言ひ得べきことで聖賢の場合には当嵌らない。
しにく
即ち「処し難い、反ッて活動が仕難い」といふのは、実なき
に得た誉の下にあるからである。聖賢の実徳実行に伴ふ正当
もと
の名誉の下でならば、如何に大名の下なればとて、決して活
動が仕難いことは無い。また世の人は言ふ。「名は美器であ
る。故に造物者之を多く取るを忌む」と。しかし造物者必ず
しも、名を多く取るを忌むので無い。かの実無くして徒らに
虚名を得んとするものを忌むのである』と。
以上二人の意見を併せ考へて見るに、何れも真理を含んだ
思想である。韓子は、文を学んで道を窺ひ得て居る人であッ
(三)
た。故に虚名を忌んで彼の言を為し得たのである。許子は理
○ ○
学の名儒である。故に斯く言ひ得たのである。されば、世の
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現に虚名を為せるものは、韓子の言ふ所に鑒みて以て之を避
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けんことに努力するがよい。又、現に実際何等の名誉の無き
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ものは、韓子の言に憤激して、以て実名を立てんことに心が
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く可きである。
(一)韓昌黎は文章を以て有名なり、名は愈、字は退之、
昌黎は其の号である。昌黎文集あり。
(二)許魯斎、名は衛、字は仲平、元の人、朱子の学を
奉じ之を唱説する頗る勗む。小学大義、読易私言等
の著あり。朱子に次ぐの大儒。
○ ○ ○ ○
(三)理学は朱子学のこと。陸王の学を心学といふと一
般。
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『洗心洞箚記』
(本文)その212
謗
(そしり)
毀
(そしり)
嵌(はま)らない
勗(つと)む
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