熟睡夢中、雑乱
穢濁、乃覚時作
止語黙、自欺
独知 之影焉耳。
而到 於誠不 欺
独知 之境 則至
人。故曰。至人
無 夢。非 無 夢、
無 夫雑乱穢濁
之夢 也。如 夢
伝説 夢 周公 、
則非 至人 亦無
此矣。
|
めさ
雑乱穢濁の夢を見るのは、覚めて居る時の言語、動作に於
て我と我が心を欺いて居るからである。されば、修養を積ん
わだかまり
で、常に心中何等の蟠なく、麗朗透徹全く我と我が心を欺か
ざるに至らば、それは、人として立派な人、徳の備ッた人、
(一)
即ち至人と言ふべきであッて、決して雑乱穢濁の夢を見るや
うなことは無い。故に「至人夢なし」と言ッてある。全く夢
を見ぬのでは無い。つまり、野卑な穢れた恐ろしい夢などを
(二)
見ぬとの意味である。聖人君子の伝説を夢み、周公を夢みる
如きは、至人でなくては殆ど全く無いことである。
心理学的にいッても、有徳の君子になれば、つまらない
夢は見ぬ道理である。古人が、夢によッて己が心中の清
濁を験したのは頗る故あることである。
(一)至人は至れる人で、聖人と同意義に用ふる。
(二)論語に、孔子の言として「吾夢に周公を見ざるこ
と久し」とある。
|
『洗心洞箚記』
(本文)その9
|