Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.1.13

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『通俗洗心洞箚記』
その13

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (9) 九 慎独克己

管理人註

人心帰乎太虚、 亦自慎独克己 而入焉。如、不慎独克己而 入、則禅学虚妄、 所謂毫釐千里。     ヤヤモスレバ 故心学者 動 誤 之也。

 吾人が修養の目的は我が心を太虚に帰一せしむるにある。 然らば、我が心を太虚に帰一せしめんには如何にすれば可な        (一)  (二) るか。其はたゞ慎独、克己によるの外無い。慎独克己によら ずして、此の身此の儘で太虚であるなどゝ悟りめかしく言ふ のは、其は禅学虚妄の悟入であッて、似て非なるものである。                        がうりん 一寸考へると極めて克く似ては居るが、思想の上の毫釐の差                  (三) は、実行の上の千里の差となる。而も心学に志すものにして、 動もすれば、此の点を誤ることがある、注意せんければなら ぬ。

                      ありのまゝ すがた (一)独りを慎むといふのは、己が心の本然の相を見出   すことである。我と我が心を欺かぬことである。人   の見聞きせぬ所に於ても、猶ほ人の前にあるが如く   恐れ慎み、人の見聞きする所に於ても、猶ほ独りあ           ありのまゝ   るが如く己が心の如実を失はぬことである。 (二)己に克つとは、己が心の中の私欲に打克つことで   ある。然らば克つものは何か、矢張り己が心の中の   耿々として覚めたる霊である、此の霊を良心といふ。   故に、己に克つとは、良心が欲心に克つことである。   慎独と克己とは修養法の殆ど総てである。 (三)心学は陽明学をこゝではさして居る。



『洗心洞箚記』
(本文)その9
 


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