人心帰乎太虚、
亦自慎独克己
而入焉。如、不
自慎独克己而
入、則禅学虚妄、
所謂毫釐千里。
ヤヤモスレバ
故心学者 動 誤
之也。
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吾人が修養の目的は我が心を太虚に帰一せしむるにある。
然らば、我が心を太虚に帰一せしめんには如何にすれば可な
(一) (二)
るか。其はたゞ慎独、克己によるの外無い。慎独克己によら
ずして、此の身此の儘で太虚であるなどゝ悟りめかしく言ふ
のは、其は禅学虚妄の悟入であッて、似て非なるものである。
がうりん
一寸考へると極めて克く似ては居るが、思想の上の毫釐の差
(三)
は、実行の上の千里の差となる。而も心学に志すものにして、
動もすれば、此の点を誤ることがある、注意せんければなら
ぬ。
ありのまゝ すがた
(一)独りを慎むといふのは、己が心の本然の相を見出
すことである。我と我が心を欺かぬことである。人
の見聞きせぬ所に於ても、猶ほ人の前にあるが如く
恐れ慎み、人の見聞きする所に於ても、猶ほ独りあ
ありのまゝ
るが如く己が心の如実を失はぬことである。
(二)己に克つとは、己が心の中の私欲に打克つことで
ある。然らば克つものは何か、矢張り己が心の中の
耿々として覚めたる霊である、此の霊を良心といふ。
故に、己に克つとは、良心が欲心に克つことである。
慎独と克己とは修養法の殆ど総てである。
(三)心学は陽明学をこゝではさして居る。
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『洗心洞箚記』
(本文)その9
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