教人者、不法於
聖賢所教之規、
而漫爾施之、則賢
与不肖、才与不
才、混雑而不能
各自得也。不能
各自得、則無益
於身心矣。無益
於身心則不如不
教之為愈也。故孟
子曰。「君子之所
以教者五。有如
時雨化之者。有
成徳者。有達材
者。有答問者。
有私淑艾者。此五
者、君子之所以教
也。」教者以此為
法則庶幾焉。而有
斯徳為教者天下鮮
矣。故子弟之成徳
達材者、未之聞
也。吁、悲夫。
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人を教ふるものは、聖賢が教ふる所の遺法を標準とすべき
みだり
である。若し、聖賢の遺法に則らずして漫爾に之を施さんか、
賢と不肖と、才と不才と、混雑して各々自得することが出来
ぬ。各々自得することが出来ぬならば、身心の発達修養に何
等の益も無い。身心の発達修養に何等の益もないならば、何
まさ
の為に人を教ふるか、寧ろ教へざるの愈れるに如かぬ。孟子
は言ッた。
(一)
『君子の教ふる所以の方法が五つある。時雨の之を化する
が如く自然にして遺さず、且つ其の性に従ッて大は大成せし
め、小は小成せしむる方法。徳を成就せしむる方法。材を達
ひそか よ をさ
せしむる方法。問に答ふる方法。私に淑くして艾めしむる方
法。此の五つの方法が即ち君子の教育法である。』と。
子弟の教養は此を以て法と為さば、其の身心を長養する所
ち か
以に庶幾い。而も、今の世、斯かる主義方針で子弟の教養に
従ふもの極めて鮮なきは遺憾の極みである。さればこそ、世
の子弟にして、真に教養の力に依ッて、徳を成し、材を達し
たるあるを聞かぬ。あゝ。
○ ○ ○ ○
是れ、今の教育家の三省すべきところ、殊に、身心に益
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
なくんば教へざるの愈れるに如かずの語、深く味ふべき
である。
(一)孟子の五法の第一は、一般的の個性本位教法を主
張したるもの。第二以下は、其の足らざるを補ふ意
味の特殊的教法の主張、而も是れ第一の個性本位主
義から出て居る。
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『洗心洞箚記』
(本文)その222
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