Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.6.8

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『通俗洗心洞箚記』
その120

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

下巻 (34)三六 個性本位の教育

管理人註

人者、不於 聖賢所教之規、 而漫爾施之、則賢 与不肖、才与不 才、混雑而不 各自得也。不 各自得、則無 於身心矣。無 於身心則不 教之為愈也。故孟 子曰。「君子之所 以教者五。有 時雨化之者。有徳者。有材 者。有問者。 有私淑艾者。此五 者、君子之所以教 也。」教者以此為 法則庶幾焉。而有 斯徳為教者天下鮮 矣。故子弟之成徳 達材者、未之聞 也。吁、悲夫。

 人を教ふるものは、聖賢が教ふる所の遺法を標準とすべき                   みだり である。若し、聖賢の遺法に則らずして漫爾に之を施さんか、 賢と不肖と、才と不才と、混雑して各々自得することが出来 ぬ。各々自得することが出来ぬならば、身心の発達修養に何 等の益も無い。身心の発達修養に何等の益もないならば、何                  まさ の為に人を教ふるか、寧ろ教へざるの愈れるに如かぬ。孟子 は言ッた。                    (一)  『君子の教ふる所以の方法が五つある。時雨の之を化する が如く自然にして遺さず、且つ其の性に従ッて大は大成せし め、小は小成せしむる方法。徳を成就せしむる方法。材を達                ひそか  よ      をさ せしむる方法。問に答ふる方法。私に淑くして艾めしむる方 法。此の五つの方法が即ち君子の教育法である。』と。  子弟の教養は此を以て法と為さば、其の身心を長養する所    ち か 以に庶幾い。而も、今の世、斯かる主義方針で子弟の教養に 従ふもの極めて鮮なきは遺憾の極みである。さればこそ、世 の子弟にして、真に教養の力に依ッて、徳を成し、材を達し たるあるを聞かぬ。あゝ。

                                              ○ ○ ○ ○ 是れ、今の教育家の三省すべきところ、殊に、身心に益 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ なくんば教へざるの愈れるに如かずの語、深く味ふべき である。 (一)孟子の五法の第一は、一般的の個性本位教法を主   張したるもの。第二以下は、其の足らざるを補ふ意   味の特殊的教法の主張、而も是れ第一の個性本位主   義から出て居る。

『洗心洞箚記』
(本文)その222

 


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