或、問知之者不
如好之者章之義。
曰。「人不失赤子
之心、則良知純粋
清明、故知了孝弟
仁義之道以好之、
好之以行之、行
之以楽之、総一斉
了、非嘗有等級
也。譬之飲食、知
之即食、食即嗜、嗜
即飽、亦何等級之有。
然而学者大抵失赤
子之心。故雖如
知之者、不能真
致其知、故不好
之、何況至於楽之
乎。終与飲食不同
也。故夫子分別知
与好与楽言、是葢
慨嘆人不復知行合
一之本体也。
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(一)
或る人、論語の『之を知るもの之を好むものに如かず』の
わし
義を問ふ。で予は斯う答へた。
(二)
人にして赤子の心を失はぬならば、己が良知、純粋にして
清明なるが故に、孝悌仁義の道を知了して之を好む。之を好
んで以て之を行ふ。之を行うて以て楽しむ。知ると好むと行
ふと楽しむと総て一斉に了る。其の間、決して等級の存する
訳では無い。之を飲食に譬ふるに、之を知ッて即ち食ふ、食
やが
へば即ち嗜む。嗜めば即て飽く。亦其の間何等の等級も無い
やう
が如なものである。而も、学者多くは赤子の心を失ふが故に、
之を知ると雖も、其は単に聞見の知に止まッて、真に其の知
を致すことが出来ない。故に之を好まないのである。況して
い か
之を行ひ之を楽しむ境界に如何で達することが出来よう。斯
くて終に、飲食の一斉なると同様に道徳を実行することが出
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
来ぬのである。されば、孔夫子の其の知ると好むと楽しむと
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
を分別して言はれたのは、畢竟、人々、聞見の知に囚はれて、
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知行合一の本体に復せざるを慨嘆せられたのである。
中斎、或る人の問に対して、知行合一の旨を以て答ふ。
陽明学の立場よりすれば当然の言である。けれども、孔
・・ ・・
子の「之を知る」の知るは、王学の「真知」にあらずし
・・ ・・ ・
て「聞見の知」である。「之を好む」の好むが「之を知
・ ・・
る」の知るに加はッて始めて王学の「真知」となる。真
知となれば必ず行にあらはる、是れ知行合一である。さ
れば、孔子が分別して説いたのは同一物を分ッて説いた
のでなくて、畢竟「聞見の知」と「真知」とを分ッて説
いたものと見るが至当である。「これを楽しむに如かず」
は実行後の感情を言ッたのであるが、此の感情の再現が
即て次の行を好む本となるのであるから、此の点からい
へば、好むと楽しむとは単に程度の差に過ぎぬのである。
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『洗心洞箚記』
(本文)その223
(一)(二)
直接の説明無し
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