Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.6.9

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『通俗洗心洞箚記』
その121

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

下巻 (35)三七 之を楽しむに如かず

管理人註

或、問之者不之者章之義。 曰。「人不赤子 之心、則良知純粋 清明、故知了孝弟 仁義之道以好之、 好之以行之、行 之以楽之、総一斉 了、非嘗有等級 也。譬之飲食、知 之即食、食即嗜、嗜 即飽、亦何等級之有。 然而学者大抵失赤 子之心。故雖之者、不真 致其知、故不 之、何況至於楽之 乎。終与飲食同 也。故夫子分別知 与好与楽言、是葢 慨嘆人不知行合 一之本体也。

         (一)  或る人、論語の『之を知るもの之を好むものに如かず』の       わし 義を問ふ。で予は斯う答へた。      (二)  人にして赤子の心を失はぬならば、己が良知、純粋にして 清明なるが故に、孝悌仁義の道を知了して之を好む。之を好 んで以て之を行ふ。之を行うて以て楽しむ。知ると好むと行 ふと楽しむと総て一斉に了る。其の間、決して等級の存する 訳では無い。之を飲食に譬ふるに、之を知ッて即ち食ふ、食           やが へば即ち嗜む。嗜めば即て飽く。亦其の間何等の等級も無い  やう が如なものである。而も、学者多くは赤子の心を失ふが故に、 之を知ると雖も、其は単に聞見の知に止まッて、真に其の知 を致すことが出来ない。故に之を好まないのである。況して              い か 之を行ひ之を楽しむ境界に如何で達することが出来よう。斯 くて終に、飲食の一斉なると同様に道徳を実行することが出                   ○ ○   ○ ○   ○ ○ ○ 来ぬのである。されば、孔夫子の其の知ると好むと楽しむと                 ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ を分別して言はれたのは、畢竟、人々、聞見の知に囚はれて、 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 知行合一の本体に復せざるを慨嘆せられたのである。

                        中斎、或る人の問に対して、知行合一の旨を以て答ふ。 陽明学の立場よりすれば当然の言である。けれども、孔      ・・  ・・ 子の「之を知る」の知るは、王学の「真知」にあらずし               ・・  ・・    ・ て「聞見の知」である。「之を好む」の好むが「之を知 ・  ・・ る」の知るに加はッて始めて王学の「真知」となる。真 知となれば必ず行にあらはる、是れ知行合一である。さ れば、孔子が分別して説いたのは同一物を分ッて説いた のでなくて、畢竟「聞見の知」と「真知」とを分ッて説 いたものと見るが至当である。「これを楽しむに如かず」 は実行後の感情を言ッたのであるが、此の感情の再現が 即て次の行を好む本となるのであるから、此の点からい へば、好むと楽しむとは単に程度の差に過ぎぬのである。 

『洗心洞箚記』
(本文)その223

(一)(二)
直接の説明無し
 


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