読 大学悪 於上 章
曰。上下前後左右、
姑就 一身 言 之、則
首者上、足者下、腹
者前、背者後、左手
者左、右手者右、心
為 中央 矣。而心便
是首足腹背手臂之為
主也。故傷 首則心誠
悪 之、然未 嘗欲 移
之于足 。傷 足則心誠
悪 之、然未 嘗欲 移
之于首 。傷 腹則心誠
悪 之、而未 嘗欲 移
之于背 。傷 背則心誠
悪 之而未 嘗欲 移 之
于腹 。傷 左手 則心
誠悪 之、而未 嘗欲
移 之于右手 。傷 右
手 則心誠悪 之、而
未 嘗欲 移 之于左
手 、是即吾心之仁也。
聖人以 天地万物 為
一体 。其視 人物 、
猶如 吾首足腹背手臂 。
故人物之病痛即我病
痛也。是以吾心之所
悪者、不 肯一毫施 乎
人 。是之謂 以 天地
万物 為 一体 也。後
之学者、亦只学 復
吾一体之仁 而已矣。
如 其工夫 、致 良知
之外、更無 学可 講也。
陽明子曰。「悪 於上
知、毋 使 於下 致 知
也」。豈不 信然 乎。
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(一) わし
大学の「上に悪む所は云々」の章を読んで予は斯う思ッた。
上下、前後左右、姑く一身に就いて之を言へば、首は上、
足は下、腹は前、背は後、左手は左、右手は右、心は中央で
ある。而も心は便ち是等首足、腹背、手臂の主である。故に
首を傷くれば心誠に之を悪む。而も決して、其悪む所を足に
移さうとは思はぬ。足を傷くれば、心誠に之を悪む。而も決
して其悪む所を首に移さうとは思はぬ。腹を傷くれば心誠に
之を悪む。而も決して其の悪む所を背に移さうとは思はぬ。
背を傷くれば、心誠に之を悪む。而も決して其の悪む所を腹
に移さうとは思はぬ。左の手を傷くれば心誠に之を悪む。而
も決して其の悪む所を右の手に移さうとは思はぬ。右の手を
傷くれば、心誠に之を悪む。而も決して其悪む所を左の手に
移さうとは思はぬ。是れ実に我が心の仁である。聖人は天地
万物と一体である。其の天下の人物を見る、猶ほ吾が首足腹
○ ○ ○ ○ ○ やまひ ○ やが ○ ○ ○
背手臂を見るが如きものがある。故に人物の病痛は即て我が
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
病痛である。さればこそ、我が心の悪む所のものは、一毫の
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微と雖も決して之を他人に施さない。是れ之、天地万物を以
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
て一体であるというのである。後の学者の学ぶ所、また唯、
吾が一体の仁に復らんとするにある。而して吾が一体の仁に
復るの工夫は、たゞ\/良知を致す外、更に学の講ずべきも
な
のあるを見ぬ。「上に悪むを知るは、下に使ふ毋きの知を致
まこと
すものである」と陽明先生は言はれた。信に其の通りである。
(一)大学に斯うある。『上に悪む所は以て下を使ふな
かれ。下に悪む所は以て上に事ふるなかれ。前に悪
む所は以て後に先んずるなかれ。後に悪む所は以て
前に従ふなかれ。右に悪む所は、以て左に交ふるな
かれ、左に悪む所は以て右に交ふるなかれ、此をこ
れ給驍フ道といふ』と。汲ヘ「執る」である。規は
規矩標準である。即ち自己の矩を取りて他の心を度
るに其の尺度を誤らぬが給驍フ道である。換言すれ
ば、善く其の有する所を持して以て人に臨むに恕を
以てすることである。
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『洗心洞箚記』
(本文)その226
給
(けっく)
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