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2015.6.11

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『通俗洗心洞箚記』
その123

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

下巻 (37)三九 正誼明道の訓

管理人註

董子曰。「正其誼、 不其利。明其 道、不其功。」 宋大儒范内翰祖禹毎 荘誦之、謂人曰。 「君子行己立朝当此。若夫成功則 天也。」而朱子亦採 之以書於其小学、 以掲於白鹿洞学則。 故膾炙人口百年 於茲、而其正誼明道 之訓、何口之者多、 而躬行之者少也。究 其所以然他。以 只有功計利之慾 也。而中人以下不斯慾也。然真 志於学者則不先去斯慾也。去 斯慾之功夫、亦只当 其義也。不其身 之禍福生死、而果敢 行之、当其道也。 不其事之成敗利鈍、 而公正履之、則其慾 日薄而道義終為家常 茶飯矣。此非虚言。 在漢諸葛武侯、在 唐二顔、在宋文謝、 在明劉黄、是皆以 道義茶飯者也。 学者如亦至此、則 庶幾酬江都紫野二 子所於後人之 意焉。

 (一)  董子は言ッた。    ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●   ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●  『其の誼を正して其の利を計らず、其道を明にして其の功 ● ● ● ● を計らず』と。  宋の大儒范内翰祖禹は、毎に之を荘誦して人に言ッた。 『君子は己を行ふにも朝に立つにも当に此の如くあらんけれ       ばならぬ。夫の成敗如何の如きは則ち天である』と。  朱子も亦此の董子の語を採ッて以て其の著小学の中にも書                            し、其の講学の場たる白鹿洞の学則にも掲げた。されば、此 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎   ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ の語の既に人口に膾炙するに茲に幾百年、而して徒に其の正 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎   ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 誼明道の訓を口にするものゝ何ぞ其れ多くして、之を我が躬 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ に行ふものゝ何ぞそれ少きや。  斯くも、口に唱ふるものゝみ多くして躬に行ふものゝ少な                      つまり き所以を予は考へて見たが、別に仔細は無い。畢竟功を計り 利を計る私慾の徒の世に多きが為である。而して中人已下の 私欲を去ることの難きは已むを得ぬとしても、苟も学に志す ものにして、尚ほ此の欲を去り得ぬは如何にも残念至極であ   ・・・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・・・・ る。真に学を志す者は、何はさておき、先づ以て斯の私欲を ・・・・・・・・・  ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ 去らんければならぬ。而して此の欲を去るの工夫、亦たゞ義 ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ を正し、道を明にする外は無い。即ち義に当ッては身の禍福 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ 生死を顧みずして断乎と之を行ひ、道に当ッては、事の成敗 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 利鈍を問はずして公正たゞ之を履行する。斯くの如くするこ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ と再三再四、常に努力して止まずは、其の欲日に薄らぎて道 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○  (二) 義終に家常茶飯の事となる。是れ決して虚言では無い。漢に          (三)       (四) 在ッては諸葛武侯。唐に在ッては二顔。宋に在つては文謝。 (五)         ・・・ ・・・・・・・・・・・・ 明に在ッては、劉、黄、是れ皆、道義を以て家事茶飯の事と ・・・・・・・・・              (六) 為したる実例である。学者、亦た若し此に至らば、江都紫陽                 ちかし 二子の後人に貽す所の意を得たるに庶幾といふべきである。

                        (一)董子―漢の思想家董仲舒のこと。武帝に用ひられ、   後、謬四王の相となる。董仲舒集、春秋繁露等の著   あり。 (二)諸葛武侯―孔明のこと、昭烈帝に仕へて丞相とな   る。出師の表は最も有名なる文章。 (三)二顔―顔真卿、顔果卿の二人をいふ。共に玄宗に   仕へて節に死す。真卿は書法に於ても有名である。 (四)文謝―文天祥、謝枋得の二人をいふ。天祥は文山   と号す。節を守り、敵に囚はれ、獄中正義の歌の作   あり。枋得は畳山と号す。節を守りて敵に囚はるゝ   や初めて建寧に到る詩を賦す。共に義烈の士。 (五)劉、黄―明の劉宗周と黄宗義とをいふ。宗周、字   は起東、弘光元年、京師陥り諸臣難に殉ずと聞き、   食はずして死す。門礼、門学等の著あり。宗義、字   は太沖、黎州と号す。康熙間、博学鴻詞に薦挙せら   れたれど、固辞して仕へず、著書頗る多し。 (六)江都紫陽の二子―輸祖禹及び朱子を指す。

『洗心洞箚記』
(本文)その226
 


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