伊川先生州之行、
乃其厄也。其渡
江、中流船幾覆、
舟中人皆号哭。先
生独正襟安坐如
常。已而及岸。同
舟有老父。問曰。
「当危時、君独
無怖色、何也。」
曰、「心存誠敬耳。」
老父曰。「心存誠
敬、固善、然不若
無心。」、先生欲
与之言。老父径去
不顧。此事儒林文
苑中旧説話、而在
人口耳既已腐爛矣、
似宜不語焉者。
然人遭其境、則孰
無心寒股粟不失
其度者哉。故雖
在口耳既已腐爛、
又当温故而知新、
是乃可謂善学也。
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(一)
伊川先生が州に旅行せられた時、途中に於て災厄に遇は
くつかへ
れた。その江を渡る時、中流に於て幾度か船が転覆へらうと
した。舟中の人、皆驚き、色を失ッて号哭した。けれども、
先生のみは、少しも驚かれず、襟を正して安坐せらるゝ常の
如くであッた。漸くにして舟は岸に達した。同舟の一老父、
先生に向ッて問を発した。
『舟将に覆らんとするの危時に当ッて、君独り怖るゝ色も
なく、泰然として居られた。如何にすれば、死境に臨んで左
様に落付いて居ることが出来申すか』と。で先生は、
『此の心に誠敬の存するのみ、別にそれ以上の方法がある
につ
訳ではござらぬ』と簡単に答へられた。すると其の老人、莞
こり まこと
爾笑ッて『此の心に誠敬の存する固に善し、さりながら此の
心に何も存せざるに越したことは御坐るまい。』と言ッた。
「はて、偉さうなことを言ふ老人であるワイ、今少し話し
こみち
て見たいが。」と先生は思はれたが、老父は径に急ぎ去ッて
最早其の辺には居なかッた。―――と。
はなし
此の説話は、儒林文苑中に載ッて居る頗る旧い説話で、人
す たこ
の耳にある既に久しく、口が酸くなるほど話し、耳が瘤にな
るほど聞いた談話で珍しくも無い。けれども、実際に其の境
遇に臨めば、誰だッて、心寒股慄、其の度を失はずに居られ
まい。故に、口耳にあッて既に已に腐爛せるほどの旧い説話
をも、採ッて以て故きを温ね新しきを知るの料と為すならば
是れ乃善く学ぶものと謂ふべきであらう。
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『洗心洞箚記』
(本文)その251
(一)の説明なし
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