吾嘗尋 繹先生存 誠敬
之旨 、頗有 一得 矣。
常告 子弟 曰。「彼老父
必老荘釈列之徒、而精
其道 者也歟。雖 如 説
無心 挫 先生之答 、然
渠似 不 識 其誠之所
以誠 、敬之所 以敬 者
也。夫吾儒之存 誠敬 者、
則更無 一点禍福生死之
念黏 著於方寸 。故其方
寸乃与 太虚 一焉。是即
大無心也。而何無心及
之。如非 誠敬 而徒無心、
則雖 人特枯木朽株焉耳。
枯木朽株、亦能入 水不
沈。異端之不 動 心、大
凡此類也。以 之経与 存
誠敬 之君子 、同視抗衡
可耶。故先生当 危時 無
怖色 。即心太虚、而与
舜之烈風雷雨弗 迷一般、
倶従 存 誠敬 上 来。鳴
呼、誠敬之義大矣哉。老
荘釈列之徒、何足 知之歟。
其後先生自 還 洛 、容
色髭髪、皆勝 乎平昔 。
非 有 佗術 以致 之。是
亦誠敬之滋潤耳。思 之
則勿 以 腐爛 視 之可也。
輩勉 旃勉 旃」。此非
特責 子弟 、予亦志 于
是 者也。壬辰之夏六月、
予以 閑逸無事 、発 浪
華 至 伏水 、而之 江州 、
泛 湖以訪 中江藤樹先生
遺跡於小川村 焉。小川村
在 江西比良嶽北 。先生
我邦姚江開宗也。謁 其墓 、
想 像其容儀道徳 、涙墜
沾 臆。其書院雖 存、而
今無 講 先生之学 者 。
其門人之苗裔業 医者、乃
監 守之 、如 守 然。
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たづね
予は嘗て、先生の心誠敬を存するの旨を尋繹て、頗る得る
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所があッた。常に子弟に告げて言ふ。『彼の老父は恐らく老
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釈荘列の徒であらう、而してやゝ其の道に精しき者でもあら
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うか。無心の説を以て、先生の答を挫いたがやうにも見える
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が、然も渠は其の誠の誠たる所以、敬の敬たる所以を知らぬ
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らしい。我が儒の所謂、誠敬を存する所以のものは、更に一
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点禍福死生の念の方寸に黏著する無きが故に、其の方寸は乃
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○やが ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
ち太虚と一体、是れ即て大無心である。而して何の無心か之
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に及ばう。若し、誠敬を存するに非ずして徒らに無心を言はゞ、
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其の人の無心は、実は枯木朽株の無心たるに過ぎない。枯木
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朽株も亦能く水に入ッて沈まぬ。異端の心を動かさずといふ
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ど う ○ ○にはか○ ○ ○ ○
もの、大凡そ此の類である。之を以て、如何して径に誠敬を
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存するの君子と同視抗衡することが出来よう。先生が危時に
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当ッて怖れなきを得たる心は即ち太虚。而して舜の烈風雷雨
● ● ● ● ● ● ● ● ● ●おなじ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
に遭ひて迷はざると一般く、倶に心誠敬を存するより来る大
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無心では無いか。あゝ誠敬を存するの義大なるかな。老釈荘
● ● ● どう ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
列の徒、何して此の真義を知ることが出来ようぞ。其の後、
先生 州より洛陽に還られたが、容色髭髪皆平昔に勝ッて居
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たといふ、がそれは他術あッて然るを致した訳では無い、全
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く誠敬の滋潤である。之を思へば、此の旧き説話は其の人の
なんぢらこれ
口耳に腐爛せるの故を以て捨つべきではない。 輩旃を勉め
よ。旃を勉めよ』と。而も此れ、特に弟子に責むるのみでは
わし
無い。予も亦常に是に志す者である。
壬辰(天保三年)の六月、予は閑逸無事であッたので、浪
華を発して伏水に至り、江州に之きて、湖に泛んで、中江藤
樹先生の遺跡を小川村に訪ねた。小川村は江西の比良嶽の北
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にある。先生は我が姚江(陽明学)の開祖である。其の墓に
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謁し、其の容儀道徳を想像するに、涙自ら墜ちて臆を沾ほさゞ
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るを得なんだ。其の書院は存するけれども、而も、今は先生
の学を講ずるものは無い。其の門人の苗裔にて医を業とする
はかもり
ものが之を監守して居る。恰も守 が墓を守るがやうに。
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『洗心洞箚記』
(本文)その251
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