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2015.6.13

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『通俗洗心洞箚記』
その125

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

下巻 (39)四〇 艱難に遇ひ生死の境に出入して始めて真切に道を知り得たり
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         ―此の後半、即ち有名なる琵琶湖遭難の記なり―(2)

管理人註

吾嘗尋繹先生存誠敬 之旨、頗有一得矣。 常告子弟曰。「彼老父 必老荘釈列之徒、而精 其道者也歟。雖 無心先生之答、然 渠似其誠之所 以誠、敬之所以敬 也。夫吾儒之存誠敬者、 則更無一点禍福生死之 念黏著於方寸。故其方 寸乃与太虚一焉。是即 大無心也。而何無心及 之。如非誠敬而徒無心、 則雖人特枯木朽株焉耳。 枯木朽株、亦能入水不 沈。異端之不心、大 凡此類也。以之経与 誠敬之君子、同視抗衡 可耶。故先生当危時 怖色。即心太虚、而与 舜之烈風雷雨弗迷一般、 倶従誠敬来。鳴 呼、誠敬之義大矣哉。老 荘釈列之徒、何足知之歟。 其後先生自、容 色髭髪、皆勝乎平昔。 非佗術以致之。是 亦誠敬之滋潤耳。思之 則勿腐爛之可也。 輩勉旃勉旃」。此非 特責子弟、予亦志于 是者也。壬辰之夏六月、 予以閑逸無事、発浪 華伏水、而之江州、 泛湖以訪中江藤樹先生 遺跡於小川村焉。小川村 在江西比良嶽北。先生 我邦姚江開宗也。謁其墓、 想像其容儀道徳、涙墜 沾臆。其書院雖存、而 今無先生之学。 其門人之苗裔業医者、乃 監守之、如然。

                   たづね  予は嘗て、先生の心誠敬を存するの旨を尋繹て、頗る得る                    ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 所があッた。常に子弟に告げて言ふ。『彼の老父は恐らく老 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 釈荘列の徒であらう、而してやゝ其の道に精しき者でもあら ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ うか。無心の説を以て、先生の答を挫いたがやうにも見える ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ が、然も渠は其の誠の誠たる所以、敬の敬たる所以を知らぬ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ らしい。我が儒の所謂、誠敬を存する所以のものは、更に一 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ 点禍福死生の念の方寸に黏著する無きが故に、其の方寸は乃 ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○やが ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ち太虚と一体、是れ即て大無心である。而して何の無心か之 ○ ○ ○ ○   ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ に及ばう。若し、誠敬を存するに非ずして徒らに無心を言はゞ、 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ 其の人の無心は、実は枯木朽株の無心たるに過ぎない。枯木 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 朽株も亦能く水に入ッて沈まぬ。異端の心を動かさずといふ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○   ど う ○ ○にはか○ ○ ○ ○ もの、大凡そ此の類である。之を以て、如何して径に誠敬を ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ● ● ● ● ● ● 存するの君子と同視抗衡することが出来よう。先生が危時に ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●   ● ● ● ● ● ● ● ● ● 当ッて怖れなきを得たる心は即ち太虚。而して舜の烈風雷雨 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●おなじ●   ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● に遭ひて迷はざると一般く、倶に心誠敬を存するより来る大 ● ● ● ● ● ● ●   ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●   ● ● ● 無心では無いか。あゝ誠敬を存するの義大なるかな。老釈荘 ● ● ●   どう ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 列の徒、何して此の真義を知ることが出来ようぞ。其の後、 先生州より洛陽に還られたが、容色髭髪皆平昔に勝ッて居                            たといふ、がそれは他術あッて然るを致した訳では無い、全 ● ● ● ● ● ● ● ● ● く誠敬の滋潤である。之を思へば、此の旧き説話は其の人の                      なんぢらこれ 口耳に腐爛せるの故を以て捨つべきではない。輩旃を勉め よ。旃を勉めよ』と。而も此れ、特に弟子に責むるのみでは    わし 無い。予も亦常に是に志す者である。  壬辰(天保三年)の六月、予は閑逸無事であッたので、浪 華を発して伏水に至り、江州に之きて、湖に泛んで、中江藤 樹先生の遺跡を小川村に訪ねた。小川村は江西の比良嶽の北                         ○ ○ ○ ○ にある。先生は我が姚江(陽明学)の開祖である。其の墓に ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 謁し、其の容儀道徳を想像するに、涙自ら墜ちて臆を沾ほさゞ ○ ○ ○ ○ ○ ○ るを得なんだ。其の書院は存するけれども、而も、今は先生 の学を講ずるものは無い。其の門人の苗裔にて医を業とする               はかもり ものが之を監守して居る。恰も守が墓を守るがやうに。


『洗心洞箚記』
(本文)その251


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