常人方寸之虚、与
聖人方寸之虚同一
虚、而気質則清濁
昏明不可同年而
語也。猶如貧人
室中之虚、与貴人
室中之虚同一虚、
而四面牆壁、上下
屋牀、則美悪精粗
之不同也、而方
寸之虚者、便是太
虚之虚、而太虚之
虚、便是方寸之虚
也、本無二矣、畢
竟、気質牆壁之
也、故、人学而変
化気質、則与聖
人同者、宛然偏布
照耀焉、無不包
涵、無不貫徹。
鳴呼、不変化気質、
而従事于学者、其
所学将何事、可謂
陋矣。
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(一)
常人の方寸の虚も、聖人の方寸の虚も同一の虚である。而
も、気質にあッては、一は濁、一は清、一は昏、一は明、ま
るで反対であッて、到底年を同じうして語ることは出来ぬ。
例を以て言へば、貧人の室中の虚も、貴人の室中の虚も、そ
の虚たる点に於ては同一である。けれども、四面の牆壁、上
下の屋牀に至ッては、その美悪精粗、殆ど比較にもならぬ程
の差がある。聖人のも常人のも、方寸の虚は共に太虚の虚で
やが
あり、太虚の虚は、即て聖人、常人を通じての方寸の虚であ
る。本来、虚は唯一つ、決して二つは無い。故に気質が其の
牆壁となッて、聖人と常人との差が出来て居るのである。故
に、人は慎独克己の修養に依ッて其の牆壁たる気質を変化し
さへすれば、聖人と同じ光が現はれて、偏布照耀、包涵せざ
るなく、貫徹せざるなきに至るべきである。然るに、世には
我自らの気質変化せに意を用ひずして、而も学業に従事する
の徒輩が尠なくない。斯の如きは抑も何の為の学問ぞ、陋と
謂ふべきである。
学者の中には気質は変化することが出来ぬといふものも
ある。気質といふ語の意味に於てはさうもいへる。けれ
ども、中斎のいふ所の気質は、今の言葉で言へば、個性
に当る。個性には、先天的稟賦と後天的習慣との二方面
がある。先天的稟賦は根本的にかへることが出来ぬが、
其の善き方面は益々之を発達させ、悪しき方面は現はれ
ぬやうに之を抑へることは教育、修養の力で出来る。又、
後天的習慣は、教育、修養の力で変化さすることの出来
るものである。此の意味より言へば、気質の変化といふ
ことは、教育の要事であり、修養の目的である。中斎の
此の点に力を用ひたる故ありといふべきである。
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『洗心洞箚記』
(本文)その11
牆壁
(しょうへき)
冒頭の(一)に
ついての記述は
欠。
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