Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.1.19

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『通俗洗心洞箚記』
その19

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (15) 一五 先づ意念の誠不誠を照せ

管理人註

   アルトキ 余見一諸生臨          鏡理髪。因謂 ヨリハ 之曰。与明   シカク若照鬢髪之 鬆不鬆、不     セツニ良知切察意 念之誠不誠。鬢 髪雖鬆、不君子。意念 不誠、則不禽獣也。

 わし  予は、或る時、子弟の鏡に臨んで髪を理するを見て、斯う 言ッたことがある。          しか        あらき あらからぬ  『明鏡に臨んで、若く、鬢髪の鬆と不鬆とを照らさんより           (一)            まこと は、先づ以て、自己の良知を明にして、切に、意念の誠なる                       あら か誠ならぬかを察するが肝要である。鬢髪たとひ鬆くとも、 為に君子たるを害することは無い。けれども、意念にして誠 ならずば、禽獣たるを害しはせぬ、即ち禽獣に近いぞよ』と。

    頭髪衣服等外貌の美ならんことをのみ力めて、毫も精神の 清からんことを求むるの念なき今の青年男女は、此の語を 聞きて果して如何の感かある。嗚呼彼等は競うて禽獣たら んとしつゝあるでは無いか。 (一)良知は今の語でいふ良心に略相応した語である。人   の心には、静に反省すれば、是非善悪を判断し、且つ   善を見て之を賞讃し、不善を見て之を排斥する純知、   純情が具ッて居る、これが即ち良知である。此の良知           やが   を明にすることが即て意念を誠にすることゝなるので   ある。故に、「良知を明にする」或は「良知を致す」   ことは、修養の大眼目である。其の方法としては前に   挙げた、慎独克己によるのである。   東洋哲学でいふ「良知」は、用ひ処によッて意味が区々   ではあるが、而も「良知は本来我に固有の能力だ」と   する点に於てほゞ一致して居る。故に「先天良心説」   「直覚説」「能力説」等に近よッて居る。所で、今日   の所謂良心説は「良心は先天後天両方面の要素を含ん   でゐて、而も固定の能力では無く、絶えず進歩発展し   つゝあるものである」とするのだから、其の間幾分相   異なる点がないではない。けれども、通俗に「良心に   問へ」「君の良心は痲痺して居る」などいふ場合の良   心が、東洋哲学の良知だと思へば、大体間違ない。


『洗心洞箚記』
(本文)その15




若照
「苦照」が正しい
 


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